
【狭山事件第一審判決】
四、弁護人等の主張に対する判断
(二)自白の信憑力について②
次いで、被告人の自白と物証の発見経過との関係について若干考察することにする。
一、万年筆の発見経過について
この点に関する前掲各証拠によれば、被害者=善枝の所持品であったと認められる万年筆一本(同押号の四二)は、被告人が昭和三十八年六月二十四日、司法警察員=青木一夫に対し、「自宅風呂場の入口(検察官に対する翌二十五日付供述調書一通によれば、勝手場入口の意と解される)敷居の上に今でも隠してある」旨自供したところから翌二十五日、小川簡易裁判所裁判官発付の捜索差押許可状を得たうえ、司法警察員=小島朝政等において、同月二十六日被告人宅に赴き、被告人の兄=六造等を立会人として捜索を開始し、立会人=六造をして同家勝手場南側出入口の上方の鴨居を捜させたところ、被告人の自供どおり発見されるに至ったものであることは明らかである。

ところで、前記両弁護人は、右捜査に先立ち、同年五月二十三日及び同年六月十八日の二回に亘り被告人方の捜索が行なわれており、その時発見し得なかったものが前記第三回目の捜索で発見されるとは如何にも不自然である旨主張するが、前掲証人=小島朝政の当公判廷の供述及び同人作成の同年五月二十三日付捜索差押調書によれば、第一回目及び第二回目のときは捜査に手抜かりがあったこと及びそのためこれを発見し得ずに終わったことが窺われるのであって、前記発見の経過に作為が介在する余地も形跡も見出し難い(前掲当裁判所の検証調書及び小島朝政作成の同年六月二十六日付捜索差押調書によれば、右隠匿場所は、勝手場出入口の鴨居で、人目に触れるところであり、その長さ、上方の空間及び奥行きいずれも僅かしかなく、もし手を伸ばして捜せば簡単に発見し得るところではあるけれども、そのため却(かえ)って捜査の盲点となり看過されたのではないかと考えられる節もあり、現に家人ですら気付いていなかった模様である)のである。
しかし、いずれにしても捜索に手抜かりがあったからといって、もとより被告人の前記自供内容の真実性は、何ら減殺されるものではなく、この点に関する被告人の捜査機関に対する自供内容の概略は、「鞄から教科書類を取り出して溝に埋める際、万年筆在中の筆入れに気付いてこれを自宅に持ち帰り、腕時計と共に前記鴨居の上に隠しておいたが、その後、筆入れは万年筆だけ残して燃やしてしまった」というのであるから、これは鞄類、教科書類の各発見現場から、普通ならそれらと共に出るべき万年筆、筆入れが発見されておらないこと、或いは前記隠匿場所が筆入れを燃やしたという風呂場に近いこと等の状況にも符合しており、却ってこれを措信し得るところである。
また弁護人=中田直人は、捜査当局は、被告人の自白を得て駆けつけて来たのであるから、自らが検すべきを故意に立会人=六造に捜させているのであって、これはいかにも芝居がかかっており、当局はそこに万年筆があることを確信していたに違いない旨主張してこれを論難(注:1)する。
しかし、前掲被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書によれば、被告人はこれより先、同月二十三日頃から犯行を全面的に認め一切を話すようになっているほか、すでに同月二十一日、被告人の自供に基づき鞄類が発見されているのであり、右万年筆についてもその隠匿場所を明確に供述しているのであるから、捜査当局が或る程度これに信を措(お)いて行動していた(翌二十五日、裁判官から捜索差押許可状を得ている)ことは、当然考えられるところであり、そして発見された場合の客観性を担保させるべく、家人に該場所を捜させて発見させたからといって、これを如何にも捜査機関に作為があったかの如く見るのは決して当(とう)を得たものではない。
(次回、"二、腕時計の発見経過について"へと続く)
注:1「論難(ろんなん)」=不正や誤りを論じ立てて、非難し攻撃すること。
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◯この狭山事件における万年筆発見の経緯は、様々な作為が疑われる中でも突出して奇異である。
被告人の自白に基づき捜査員らは石川宅の風呂場へと捜索に向かった。被告によれば万年筆はその風呂場の鴨居の上だとの供述であるので、場所はおおよそ把握できていたはずだ。であれば、立会人となった兄の六造氏に対しては、あくまでその捜索を見守る立場とさせ、被害者の万年筆を石川宅から発見という重大な場面は慎重に着手し記録、のちの裁判を維持するためにもそれは欠かせない段取りであったはずだ。しかしこの日、自信に満ち石川宅を訪れた捜査員は、その捜査手順など頭になく、もっぱら確実にある筈である万年筆の押収に気を取られ(推測に過ぎないが、捜査員は「関くん、よくやった」と思ったかどうか・・・)、立会人である石川六造氏に対し、鴨居上から素手で万年筆を取り出させるという行為をうながしている。
鴨居の上にどういった状況で万年筆が置かれていたか、まずこれを撮影し、各種記録をし、そののちに白手袋をはめた手で証拠物をビニール袋に収める、これが素人でもわかる証拠物押収の手法であるが、現実には本文に添付した写真の如く、捜査の基本を逸脱した出鱈目な方法で万年筆は押収されている。これについて若者の言葉を借りれば、『これ、マジヤバくね』となる。