アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 1325

    ○今ここに引用している裁判記録は狭山事件裁判の第二審であり、これは長期にわたる裁判の結果、西暦1974年、元号でいう昭和49年、被告人である石川一雄無期懲役の判決が下されている。

   昭和41年生まれである老生は、そうすると当時8才ぐらいであり、このような事件があろうことも皆目知れない年頃であった。だらっと無駄に馬齢を重ねここまで生き延びてしまうと、何やら無性に己が生きて来た時代を回顧したい欲求に駆られるもので、以前、東村山市:なごやか文庫において三百円ほどで入手した古い写真集を眺めたりする・・・。

この写真集が発行された日付を見ると昭和四十九年とあり、まさに狭山裁判の第二審が結審する時期と重なる。そんな大人の世界を尻目に、ではこの当時、小学生低学年の己れは何をしていたか記憶を辿ると、例えば仲間たちと共に、拾った空き缶に野犬の糞を入れこれに小便を足し攪拌、全く意味のないその行為の一部始終を見ていた近所の上流夫人が後難を恐れ逃げ出すのを見、「これ飲みませんか」と追いかけ回した・・・などという全く低レベルな少年時代しか思い出せなく、情けなくなる。

 

   ところで越後、魚沼の瞽女を四年にわたり記録された写真は、この当時における日本各地の農村地方の姿を如実に示すものとして貴重である。昭和世代には懐かしさが湧きあがる二点の写真は「橋本照嵩写真集"瞽女"」より引用させていただいた。

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狭山事件公判調書第二審4059丁〜】

自白論  その(1) 『鞄・万年筆・腕時計と自白』

                                                               弁護人=宮沢祥夫

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第二、 「万年筆」

一. 当審証拠調の結果明らかになった重要な事実の一つは被告人宅に、第三次捜索数日前までは万年筆はなかったという事実である。

   (一) 被害品とされる万年筆は六月二十六日、被告人方の捜索で勝手方の上にある鴨居から発見された。万年筆等に関する自供は、被告人が全面的な単独犯行の自供を行なった六月二十三日の「鞄・教科書」に関する自供に続いて六月二十四日になされたのが初めてである。

   そして、被告人がその場所を図示し、証人=小島朝政がその図面を持って被告人方を捜索した結果、発見されたとされている。

   (二) ところでこの万年筆が発見される前に、五月二十三日・六月十八日の二日間、被告人方の捜索が行なわれているのである。

   第一回目の五月二十三日の捜査は脅迫状に使用した残りの帳面、脅迫状を書いた筆記用具類等、本件に関係あると認められる物の捜査の目的を持って、午前四時四十五分から午后七時二分の間、十四時間余りの長時間にわたって捜査しているのであって、その捜査人員は、芝岡、諏訪部、小島警部等十二名によって、家屋の内部、家屋周囲を捜査し、室内はもとより勝手場・風呂場、さらには天井裏に至るまで、くまなく捜査して、ノート・紙片・ボールペン・封筒・地下足袋等、十四点の押収をしているのである。

   ところが勝手場から本件万年筆は発見されなかった。

   第二回目の六月十八日の捜査は本件における重要な物証とされるダレス鞄・腕時計・万年筆・ビニールチャック付財布、その他、本件に関係あるものと認められるものに捜査目的を絞って、被告人宅の捜査を行なったものであり、前回より人員を増加して、芝岡・小島警部等十四名によって約二時間にわたり、屋内を中心に屋外の捜査を行ない、前回に引き続いて勝手場の捜査も行なっているのである。

(続く)

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○引用を(二)の途中で一旦止めるが、これは老生が陥りやすい、流し読みという行為に対し注意喚起するためである。なぜならばこの万年筆の問題は軽く考えてはならない重くて黒い闇を孕(はら)んでいるからである。

   この万年筆問題に関して、"狭山自白・「不自然さ」の解明"の著者=山下恒男氏は次のように述べている。

  『 万年筆はすでに二度の家宅捜索によって徹底的に調べられた後に出てきた点に不審が持たれる。また、発見された万年筆のインクがブルーブラックであって、善枝さんが事件当日の朝まで使用していた万年筆のインクがライトブルーであることなど、はたして善枝さんの所持品であったかどうかも疑問が持たれている。    

  石川さんが最後まで処分しないで隠しておいた万年筆とはどのようなものであったのか。事件当時、善枝さんの同級生であったS・Tさんによれば、「善枝さんの万年筆はたしかに濃い桃色に金色キャップのもので、手帳に差したり筆箱に入れたり、していました」(七月一日付検河本仁之)とあり、一見して明らかに女物とわかるものであり、石川さんが持っているには危険な物であった。仮に何らかの理由でこの万年筆が必要であったとしても、死体が発見された後までこの万年筆を手元に置いておく意味はまったく認められないのである。

それでは、なぜこれを処分しなかったのだろう。石川さんの自白では、「時計だけを捨てたのは、家の人に見つけられた時、万年筆なら道で拾ったと言い訳ができますが・・・・・・」(七月二日付検 原正)となっている。

   しかし、見つけられた時の言い訳を考えるより、家の人に見つけられない工夫をするのが先決問題だと思えるのだが、石川さんが隠し場所についてそのような配慮をした形跡はない。それに、この供述では、万年筆を捨てない積極的理由は説明されていないのである。

   また、「万年筆なら拾ったと言い訳ができ」るのであろうか。当時、石川さんの家では、彼が犯人と疑われるのではないかと危惧していた形跡があり、家人は「アリバイ工作」さえもしようと していたのである。もっとも、「アリバイ工作」といっても、犯行を隠すためのものではなく、あらぬ疑いをかけられたくないといった程度のことであったので、矛盾だらけで、それが虚偽のものであることがすぐにわかるようなものであった。

また、父親は昔気質の律儀で実直な性格の人で、息子が本当に犯罪に関係していることがわかったとすれば、それを隠したり、見逃すようなことは考えられない人である』("狭山自白・「不自然さ」の解明"  山下恒男:著より引用)