アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 500

【公判調書1615丁〜】

三つの「証拠物」                                              宇津泰親

〈 鞄 〉

五、『さらに右の点を裏付ける二つの事実を指摘しなければならない。

一つは関源三の泥まみれの点である。彼は何故か、この泥まみれになって取調室に戻ったことを否認している。被告人とはこの点で明らかに食違っている。しかし当審第三十一回公判において、立会警官であり、例の筆圧痕問題で証人として喚問された遠藤三は、うっかり「石川君が鞄だったか何かを捨てた場所を図面に書き、それを関部長が持って捜索に行ったところが、関部長は泥まみれになって“無い”と言って帰って来た」と問わず語りをしてしまったではないか。この一言は、被告人の供述の真実をはっきりと裏打ちしている。

二つには、関は、途中で電話連絡をしたことも否認して、この点でも被告人のいうところと食違いを見せていたが、当審第七回公判では青木一夫が、はっきり「関が帰る前に、鞄が無かったことは連絡があった」と証言している。ここでも被告人の供述は真実を獲得している。

要するにここで言えることは、鞄が被告人の自供に基づいて捜索発見されたというのは全く警察の作った偽装工作の所産であり、それに沿った六月二十日、二十一日の各自供調書は、警察のねつ造物であるということである。

以上の指摘に加えて、鞄と本を埋めたという場所に関する供述に見られる疑惑がある。ここで控訴趣意書の当該部分を参照すれば、その問題は明らかであるから再論しないことにする』

*以上で “〈 鞄 〉一から五” の引用を終える。次回、〈 時計 〉の引用に入る。

○ここに一冊の本がある。数年前に古本屋で購入した、狭山事件に関する書籍だ。機会があるごとに狭山事件の関連本を入手してきたが、この事件の、公判調書そのものに接触してしまうと、この手の書籍に顕著な、著者の主観に満ちた狭山事件関連本は敬遠しがちになる。どこの馬の骨か、牛の皮か知れぬ者の、狭山事件の推理など、読むだけ無駄である。しかし、この「検証・狭山事件」なる本はある意味で興味深い。それは、著者の、狭山事件に対する興味が湧き過ぎた末、著者本人が現地に赴き、関係者等に取材を敢行しているからである。労力に対する対価の無視は潔く、老生も見習わねばならない。とは言え、やはりこの著者も例に漏れず、巻末において自己の推理を披露している。これがなければかなりドキュメントよりの、例えば佐木隆三の著作に近い評価が与えられると思うのだが。

さて、「検証・狭山事件」(213頁〜)記載の文章を見てみよう。これを載せる理由はやがて分かっていただけると思う。文体は簡略化した。

『当時、狭山消防団第三分団所属、被害者遺体の第一発見者=沢村(仮名)に対する著者による問答』

問=「最初に確認させて頂きたいのですが、被害者の遺体を発見されたのは沢村さん、ということでよろしいんですか?」

答=「そう、私の方で見つけてるね・・・・・・。その時は機動隊員と二人一組になって捜索やったんだけど、それで渡辺って隊員と一緒に発見したんだよ」

問=「裁判では大橋伸一郎(仮名)という方が第一発見者になっているんですが、あれは違うんですか?」

答=「ああ、あれはね、別の分団で隊長やってた人」

問 =「そうなんですか・・・。では、大橋さんが直接見つけたわけではないと・・・。」

答=「そうだね。最初に見つけたのは我々だったから」

問=「あと、当時の週刊誌を見ると、沢村さんが “善枝さんの持ち物を見つけた ”って出ているものもあるんですが、あれはどうなんでしょうか?」

答=「ああ、カバンか・・・」

問=「やはりカバンがあったんですか?」

答=「でもあれ・・・場所が違うんだよな」

問=「え?・・・どういうことなんですか?」

答=「置いてあったの」

問=「・・・・・・え?」

答=「あの死体発見現場の横には茶垣が一列になってあったでしょう・・・・・・?カバンはその根元に置いてあったんだよね」

問=「その話は初めて聞きました。そうだったんですか・・・。これまでの報道とは全然違いますね。でも、茶垣の下ってことは、何か隠すような感じで置かれてあったんですか?」

答=「いや、違うね。普通に置かれてあった。通り(農道)からすぐ見えたからね」

問=「沢村さんはその時、カバンの中身はご覧になったんですか?」

答=「いや、それは見なかった。我々(消防団員)だけだったら見たんだろうけど、警察の人が一緒だったからね」

問=「でも、これは確実に善枝さんのものだろう、と」

答=「そう。学生の使うようなものだったから、“ こりゃあ、間違いない ”ってことになって。それで “(死体が) 埋まってんのはこのあたりなんじゃないか ”って思って見回したら、それらしいところがあるじゃない。新しい土が出てて、軟らかくなっているようなさ・・・。だから二人で “掘ってみよう” ってことになった。それで、確か近くに農作業やってた人がいたんで、その人に農具を借りたんだな」

問=「当時の報道記録を見ると “おかめ(草かき)を借りた ”って出てきますよね」

答=「そう。それを借りて、しばらく掘った。そしたら荒縄が出てきて・・・・・・。それで、それを引っ張ったら(死体の)手が出てきたもんだから、もう、ビックリしてね」

問=「その後はどうなさったんですか?」

答=「現場保存のために、一回埋め戻した。それから他の人たちを呼んだね」

問=「カバンはどうなったんですか?」

答=「機動隊の人に渡した。だから、そっちで持ってったと思うよ」

問=「でも、カバンはその後、一か月半も経ってから捕まった石川さんの自白に基づいて、全然違う場所から発見されているわけですよね。そのニュースを聞いた時は不思議に思いませんでしたか?」

答=「・・・・・・不思議に思ったねぇ・・・・・・」

問=「沢村さんは、事件が起きたとき、誰が犯人だと思いましたか?」

答=「あの頃、堀兼の方に養豚場があったんだけど、そこの連中が怪しいと思ったね」

問=「同じようなことをおっしゃってる方はかなり多いようなんですけど、あの養豚場の評判はそんなにも悪かったんですか?」

答=「かなり悪かった。あそこは日頃から、悪さするような連中ばかりが集まってたところだったから」(以下略)

 

○さらに後日、著者による二回目の問答が行なわれており、ここでも興味深い話が聞ける。

問=「ところで、捜索は何日から始めて何日まで続けたのでしょうか?」

答=「私の方は死体が見つかった日(五月四日)だけだった。前の日に知らされてさ・・・・・・それで翌朝集合、ってことになったんだ」

問=「その時はもう、事件のことはご存知じでしたか?」

答=「最初に知ったのがいつだったのかはもう覚えてないなあ・・・。ただ、三日になったらかなりの騒ぎにはなってたよね。あと、その前の日(二日)にさ、権現橋とかあの周辺で検問やってたんだ。警察官が “名前と、これからどこへ行くのかを教えなさい” なんて言ってきてさ。でも、あとで考えてみると佐野屋の張込みやったのはあの日の晩だったんだよな・・・・・・」

問=「もう一度確認させて頂きたいのですが、カバンはどこにあったのでしょうか?」

答=「もう、はっきり覚えていないところもあるんだけど・・・・・・前回は何て言ったっけ?」

問=「前の時は “茶の木の根元に置いてあった” というお話だったんですが・・・・・・」

答=「うーん・・・・・・それ、もしかしたら穴の中だったかもしれないな」

問=「やっぱり、芋穴ですか?」

答=「そうだったかもしれない。でも、ありゃ今考えてもやっぱりカバンだったな・・・・・・。自分たちは、死体の埋まっている跡に気づかないでいっぺんその上を通り過ぎちゃってるんだ。もしそれがなかったら、後戻りしようなんて気が起きるはずないし・・・・・・。風呂敷とか棒なんか見たって何とも思わないだろうしさ」

問=「裁判で “第一発見者”になっている大橋(仮名)さんって、その時現場にはいたんですか?」

答=「いない。あの大橋って人は、分団も違うしね。その時現場にはいなかった」

問=「それなのに、どうしてあの方が発見者になってしまったんでしょうか?」

答=「なんであんなことを言い出したのか・・・・・・ちょっとこっちでは分からないなあ・・・。裁判にあの人が呼ばれたのも知ってるんだけどさ・・・・・・。だから、その時は消防団の中でも “何であの人が(裁判で)話すんだ” って言ってるのがいたんだよ」

問=「やはり、それは警察に頼まれた、ってことだったんでしょうか?」

答=「その辺も何があったのか・・・・・・分からないなあ・・・・・・。とにかく、こっちは(死体を)見つけた時に警察に事情聞かれただけで、裁判に出てくれって話は全然来なかったよ」(以下略。引用元=『検証・狭山事件  女子高校生誘拐殺人の現場と証言  伊吹隼人  社会評論社』)

○これらの話は裁判記録に登場せず、したがって引用した上記の問答をすべて鵜呑みにすることは出来ない。せいぜい、事件推理の足しになる程度である。そこでその推理という角度から引用文を読むと、これは “足し” どころか、鞄発見のされ方から、それが誰に渡ったのか、さらにその先の展開、つまりこれまでに弁論人が主張している被害品の発見経過における矛盾・不合理へとつながるのだ。

 

狭山の黒い闇に触れる 499

【公判調書1613丁〜】

三つの「証拠物」                                              宇津泰親

〈 鞄 〉

三、『なお、六月二十一日付青木調書には、取調時刻が午後五時頃とあるのはどういうつもりであろうか。原審第五回公判で関源三は、「六月二十一日朝に被告人に書いてもらった図面で探しに行ったが無かった。そして同日午後三時半に被告人にもう一度図面を書かせて、午後四時頃に発した」と言っている。しかしその青木調書の取調時刻は午後五時である。まったく辻褄の合わない話ではないか。

とにかく、関源三は五月三日、四日の両日、山狩りに参加したし、鞄が出たという場所を含んでかなり広範囲になされた山狩りであった。そして彼はゴム紐の発見者でもある。本件鞄は、被告人の自供よりも前に、何らかの方法ないし経緯によって警察の手に入っていたと考えなければならないのではないか。ともあれ、当裁判所においては、これらの問題を巡ってさらに徹底的な真実の究明がなされる必要がある。そしてそのためには当時の捜査官たちに対する取調べをさらに重ねる必要がある』

四、『被告人は、五月三日にゴム紐が発見された場所について、逮捕される前すでにテレビ等で知っていたし、逮捕され狹山署にいる時にポリグラフにかけられたとき、教科書が発見されたという場所を図示されて、そこは川ではない、溝だなどと係官と論じたこともある。そういう被告人が、青木一夫、長谷部、関源三といった顔馴染みの取調官たちと冗談をたたきながら、取調官に教えられたり、自分の思い付きをも交えながら、鞄を捨てたという図面を作った。こういう情況は、当審の関係証言を総合すれば容易に推認できる。

さらに言うならば、警察は六月二十一日か、あるいはとにかく被告の自供時期とはおよそ関係のない日時に鞄を実際に入手しておきながら、被告人が関に三人でやったことを述べたのちの六月二十四日か二十五日頃に、警察がわざと被告人に鞄を捨てたという場所を誘導して書かせ、しかも二回も書かせた。そして、最初の図面では発見出来なかった、本当はここだろうと教えた図面をまた書かせた。その間、関源三は、いかにも一回目の図面を持って探しに行くようなふりをして取調室を出て、青木たちに時を見計らって電話を入れ、どこかで洋服の尻や手を泥だらけにした格好をして戻り、こんなになって探したが無かったぞという芝居を打った。青木や長谷部はこの筋書を当然知っているから、関が退室するや、被告人が書いた場所は違うだろう、実際埋めたのは川のところじゃないか、その川のところを書けと言った。被告人は、川ではなく溝だと話しながら地図を書いた。それをとって長谷部たちは、泥まみれになって舞い戻ってきた関源三に、今度は間違いないから行ってくれと言った。その後、被告人は二回目の地図によって鞄が出たと聞かされた。彼は長谷部の、この凄い勘にすっかり感服した。当審における証拠は、こういうとんでもない光景が実際の取調べ状況であったことを雄弁に物語っている』

*次回〈鞄〉五、に続く。

○現在引用中の文章は、他ならぬ「狭山事件公判調書第二審」がその原典となる。れっきとした、由緒正しい正真正銘の裁判記録である。そのような性質の書物に上記のような文章が記録されている、いや、言い方を変えると、記録される事を踏まえ弁護人は発言しているとすると、その発言内容は確度の高い情報に裏打ちされているのかも知れない。つまり、ほぼ真実の暴露に近いのかも知れない、などと考えてしまった。とりわけ今回引用した内容は、巷に出回る狭山事件推理本など消し飛ぶほどの刺激と信憑性に満ちている。事件の弁護に当たる専門家たちの意見は侮れない。

 

狭山の黒い闇に触れる 498

【公判調書1612丁〜】

三つの「証拠物」                                              宇津泰親

〈 鞄 〉

二、絶食を始めたのは六月十九日か二十日からだと被告人はいう。絶食して二、三日経った六月二十三日頃、はじめて関源三に、三人でやったと言い出したという。この間警察は、医者を呼んで被告人を診察したとも言っている。

この六月十七日に川越に移ってから、三、四日経った十九日か二十日から絶食を始め、絶食を始めてのち二十三日頃、関源三に三人でやったと述べたという記憶は正確であり、極めて信用できる十分の根拠がある。すなわち、当審第五回公判で関源三証人の証言がそれである。関源三は、川越に移ってから被告人に会ったが、その会った時期は、被告人が三日くらい飯を食わないという話を聞いていたときだと証言している。被告人は、川越に移った途端、絶食を始めたのではない。絶食するに至った理由、経緯について被告人は当法廷においてまことに具体的に述べている。

川越第一夜は箱飯を少し食ったが臭いため残した。次の日、青木一夫が(注:1)三食ともパンを買ってもらって食べた。その後長谷部課長に話して、警官と同じ飯を食べたが、斉藤という警官に、箱飯が臭ければ食うなと言われたのに腹を立てて絶食をするようになったというのである。

以上の事実は、被告人のいう、関源三に三人でやったと言ったのは六月二十三日頃だという当審供述を極めて強く裏付けるものである。と同時にそのことは、六月二十日付、二十一日付の自供調書の成立関係が極めて怪しくなる。さらにこの一事は、被告人の自供調書全部の作成経過全体について、甚だ濃厚な疑惑を投げかけないではいないのである。

さらに言えば、特に六月二十一日付の関源三、青木一夫の各調書の成立が怪しいということは、六月二十一日夕刻六時四十分、関源三らによって捜査発見されたという鞄は、被告人の自供に基づいて捜索発見されたものでは絶対にないということである。

*次回〈鞄〉三、へ続く。

(注:1 )の “青木一夫が ” という表記は、その助詞だか格助詞だか分からんが、「が」ではなく「に」が正しい表記と思われる。ここでは被告人の食事について語られており、青木一夫の食事に触れているわけではない。“ 青木一夫に ”と表記すれば前後の文脈とも合う。ただし、引用は原文通りとした。

狭山の黒い闇に触れる 497

【公判調書1611丁〜】{更新手続における証拠に関する意見(第三十七回公判)}

三つの「証拠物」                                  弁護人 宇津泰親

この狭山事件の特徴の一つは、被告人の一審有罪判決のいわばキメ手は、被告人の自供に基づいて被害品が発見されたということにあった。原判決の理由を一読してそれは明らかである。しかし弁護人は、一審当初より、被告人の自白とその自白に基づく「被害品」の「発見経過」そのものに矛盾、不合理があること、自白が虚偽であることを極力主張し無罪を要請した。当審のこれまでの事実調べの結果、被告人の自白の虚偽がますます明らかになったと言わざるを得ない。

以下、被害品といわれる鞄、時計、万年筆がいずれも被告人の自白に基づいて発見されたという、その「発見経過」そのものに重大な疑惑があり、捜査当局による偽装がうかがえるという点を指摘するものである。そのことは、とりもなおさず、被告人の自白の虚偽を明らかにする所以でもある。

〈 鞄 〉

一、当審の証拠調べの結果明らかになった最も重要な事実の一つは、被告人が関源三に対して、いわゆる三人共犯説の自供をしたという時期の問題である。自供調書の上では六月二十日付である。この調書は、三人共犯の筋書を書いているほかに、終わりに一言、鞄の捨てた場所は関さんが今度来たとき地図を書いて教えるなどと書いている。そして翌六月二十一日付の関調書一通、青木調書二通がある。その関調書では、自転車の紐も鞄も一緒におっぽっちゃった、と言っており、鞄を捨てた場所を教えるといってワラ半紙に万年筆で略図を書いたとなっている。

ところが青木調書では、鞄と本、紐を捨てた場所は、別々のところだと言いかえている他、鞄を捨てた場所の図面を書き改めていることになっている。尚、この青木調書は、珍しく取調時刻が午後五時と念入りに表記されている。

しかし、六月二十日、二十一日の段階で、こういう内容の自白があったというのはウソである。まず当審の法廷で被告人は、自分が関源三に対し、三人でやったと言い出したのは二十三日頃だったと繰り返し述べている。そしてまた、二十日ではなくて二十三日頃だったということの根拠を被告人は次のように述べている。ここでは第二十六回公判における彼のいうところを聞こう。

六月十七日の川越移監、十八日と二十日弁護人との接見、二十日の裁判官の勾留質問、そしてそのいずれにおいても犯行は否認していた。これらはすでに明確な事実である。さらに次の事実が追加される。それは、被告人は川越へ移ったのち、警察のいわゆる箱飯が臭いことに端を発して絶食をしたという事実である。この絶食の始期、期間、と自白の時期との関係が、ここでの最も重要な問題なのである。

*次回、二、の引用に続く。

 

 

狭山の黒い闇に触れる 496

【公判調書1608丁〜】

「現場足跡は偽造された」                                植木敬夫

四、鑑定の怪

(三)『われわれは、どうやら結論に近づいた。

鑑定資料とされた「現場足跡」なるものは、現場にあった足跡ではなく、第三者(恐らくは加藤技師)に、現場の土で印象させた足跡であると、われわれは考える。この証拠のすり替えのためにこそ、科学的に不必要な加藤技師の印象実験を行なったのであるし、実況見分調書の不可解極まる作り方や、自白させる際に、実況見分書上の足跡の位置や形状を少しも考慮しているように見えないことも、すべて、このすじ替え(原文ママ)を隠すための下手な工作であったのである。

ともかく、この鑑定で「現場足跡」なるものの拇趾と他の四趾の落差という最大の特徴において、被告人の印象実験による足跡と大きく異なる以上、右の「現場足跡」が被告人のものではないことだけは、間違いない事実である。以上』

*弁護人=植木敬夫による意見は以上である。次回は弁護人=宇津泰親の意見を引用する。

狭山の黒い闇に触れる 495

【公判調書1606丁〜】

「現場足跡は偽造された」                                植木敬夫

四、鑑定の怪

(二) 『わたくしは、ここで決定的な証拠を指摘しよう。鑑定資料(二)(一)の右足地下足袋は、拇趾が下へ強く屈曲し、第一趾以下が反対に上に屈曲して、双方が大きく喰違っていることに大きな特徴があるとされ、それは「製造時または履き癖により歪が固定し」たものとされている。そして、鑑定資料(一)(2)(3)の現場足跡(右足)も、対照資料も、すべてこの特徴が顕著に出ていることが繰り返し強調されている。

この地下足袋には、確かに右のような特徴があるように見える。しかし、常識的に考えると、製造時にこのような固定癖が付くことは、まず考えられない。何故なら、ゴムは一定に型に流し込んで固めるのであるから、その時にこの様な変わった癖が出来る可能性は、一般的に言って無いからである。したがってこの特徴は、常識的に言ってこれを常用した者の履き癖によるものと考えなければならない。ところが、これの常用者は、所有者である被告人の兄六造であることは、本件記録上明らかな事実である。六造の地下足袋に、どうしてこんな固定癖が付いたのかは、それ自体なかなか想像しにくい問題であるが、この際は、それは問題ではない。

問題は、地下足袋自体に固定癖があることと、それを第三者が履いた時、それが、そのまま出るかどうかは別問題だということである。何故ならゴムは軟らかく人間の足趾の力より弱いから、この地下足袋の趾の癖とは違った趾を持った人がそれを履けば、当然この癖は修正をされるはずだからである。被告人の足の大きさは十文半である。この地下足袋は九文七分である。であるから、被告人がこの地下足袋を履くには、趾を全部下に強く曲げて、力一杯足を小さくして履かなければならないことは説明するまでもなく、誰にでもわかることである。そうとすれば、拇趾は他の趾より大きいから、確かに他の趾より深く印象されることになるであろうが、同時に、他の四趾も、それを下に曲げることによって地下足袋の原型が修正され、拇趾跡と他の四趾跡の落差は、その固定癖よりも小さくなるに違いないのである。

したがって、鑑定資料(一)(2)(3)の現場足跡が、その拇趾と他の四趾の落差が(二)(1)の地下足袋固有の落差に近いとすれば、それは、被告人が(二)(1)の地下足袋を履いて歩いたことを証明するのではなく、反対に、被告人のものでないことをこそ証明するのである。

しかしここに、もし九文七分の大きさの足を持った人がいて、この(二)(1)の地下足袋を、趾に力入れることなく素直に履くことができれば、普通の状態では趾に力を入れる必要がないから、そのまま軟土の上を歩けば、地下足袋の癖が比較的素直に印象されることは考えられないことではない。こう考えると、加藤技師がもし九文七分の足の持主なら (三人の技師のうちで、彼がわざわざ履いて実験したのであるから、多分彼の足は九文七分に違いない)、彼が印象した足跡は、被告人のものよりは、地下足袋の固定癖に近い落差を現すに違いない。

さて、以上の考察の上に立って、対照資料のA号、つまり加藤技師の足跡石膏とB号、つまり被告人のそれとを対比してみよう。そうすると、一般にA号の方が落差が大きく、鑑定資料(一)(2)(3)の現場足跡の落差に近似しているが、B号の方は、それより平均して落差がずっと小さいことが一目瞭然である。このことは、法廷に顕出された石膏そのものを検証すれば良いが、鑑定資料添付の写真で言えば、第五十九図上段の写真を見ればよい。符号2.3の鑑定資料と酷似しているのはA16であて、B1と B10は、落差がはるかに小さいのである。してみれば、鑑定資料(一)(2)(3)の足跡は、同じ(二)(1)の地下足袋の跡であるとしたら、それは被告人の足跡ではなく、むしろ加藤技師の足跡と云うべきである』

*引用文にある “鑑定資料” が手元になく、公判調書を読み進める際には非常にマイナス要素となる。随分と某図書館・郷土資料室(狭山事件公判調書が保管してある)で資料を漁ったが、見つからず・・・。

 

 

狭山の黒い闇に触れる 494

【公判調書1605丁〜】

「現場足跡は偽造された」                                植木敬夫

四、鑑定の怪

足跡に関する捜査のやり方の、以上のような奇怪さは、採取したと称する足跡に基づく鑑定のやり方にも及んでいる。(註、ここでは、鑑定全体を批判するのではない)

(一) 『警察技師関根政一と岸田政司が作成したという足跡鑑定書をみると、彼らは対照足跡を作成するために、警察技師加藤幸男と被告人に、それぞれ押収地下足袋(証二十八の一)を履かせて、土の上に足跡を印象させている。不思議なことには、このうち加藤技師には「堀兼字吉野七八三番地の畑、すなわち足跡印象現場の土を・・・鑑識課に運搬し・・・該土で畑とほぼ同一条件の状態で土を盛り足跡の印象実験を行なった」(同鑑定書)のに、被告人に対しては、それをしていない(していてもそれを鑑定資料にしていない)のである。しかし、この土は「狭山警察署で採取したもの」で、それを六月一日に県警鑑識課へ運搬したということになっているが、他ならぬこの六月一日に、彼らは狭山警察署に行って、被告人に別の土で足跡印象実験をさせたというのである。そうとすれば、この現場の土は、被告人に右の実験をさせるため狭山署に行ったとき、ついでに県警まで運んできたに違いない。ともかく、狭山署に現場の土があり、被告人がそこにいるのに、被告人にはその土で実験せず、わざわざ「留置場前のコンクリート上に砂土を積み、軟土地面とほぼ同一条件と」しするという面倒な努力をして、別の土で実験させたのである。

考えてみれば、足跡は単に履物の形状だけではなく、足の踏みつけ方や、踏み出し方などの個人的習性の差によって、その全体の形状が影響を受けるのであるから、現場の土がある以上、被告人にこそ、その土で実験させることが何よりも必要であることは初歩的な常識ではなかろうか。このことに比べれば、第三者に実験させることは、科学的にまったく不必要であるか、せいぜいのところ、ほんの参考資料程度になるに過ぎない。したがって、われわれは、この鑑定のやり方自体に、人には言えない、何か別の思惑や目的があった、と考えざるを得ないのである』

*次回、(二)へ続く。