アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 371

昭和四十三年、東京高等裁判所狭山事件第二審が進行する中、被告人及び弁護団より「事実取調請求書」が提出され、二十一通に及ぶ石川一雄被告人の供述調書が証拠として請求された。その立証趣旨は「被告人石川一雄に対する取調状況および同人の供述経過を明らかにする」ためである。請求した供述調書は目録通り二十一通であることを確認し、前回まで引用して来たわけだが、途中で調書の落丁問題が発生、これに釣られて我が脳ミソも混乱し、結果として目録とのズレが起きてしまった。そこで調書に載っている供述調書(本来なら二十一通)は全て引用しておくことにする。

【公判調書1353丁〜】供述調書 石川一雄

右の者に対する強盗、強姦、殺人、死体遺棄被疑事件につき、昭和三十八年七月八日川越警察署分室において、本職は、あらかじめ被疑者に対し、自己の意思に反して供述をする必要がない旨を告げて取調べたところ、被疑者は任意左のとおり供述した。

私は狭山署に泊められていた頃は、何とかして逃れたいという気持ちと、家の者に申し訳ないから、とても生きていられないという気持ち等が入り混じって、ごちゃごちゃした気持ちでいました。仮に逃れられたとしても一旦犯人として捕まった以上、家の者に顔向け出来ないという気持ちから、死んでしまいたい様な気持ちになった事もあり、そんな時は、留置場の板に自分の名前書いてその上に死んだことを表す✖️を書いたりしました。しかし何とか逃れたいという気持ちの方が強かったので面会に来てくれた弁護士さんが調書には署名しなくてもいいんだよと云ってくれたりしたのを聞いて、検事さんの調書に名前を書かなかったりしました。しかし今ではすっかり素直な気持ちになって、ありのままの事を話し、お裁きを待っています。供述人  石川一雄

右のとおり録取し読み聞かせたところ誤りのない旨申立て署名指印した。

浦和地方検察庁  

検察官検事・河本仁之、検察事務官・橋上  英。

*昨日、拙ブログに載せた写真だけでは説明不足であったので、ここに補完しておく。

狭山事件再審弁護団、解放同盟、その他の支援団体により事件の再現実験が行われている(残念ながら実験を行なった日付は不明である)。石川一雄被告人の第一審における供述の中に、身代金を取りに佐野屋(酒類販売業)付近に出向いた旨の自白があり、そこで語られた状況が、実は身代金を届けに佐野屋前に立った被害者の姉、登美恵さんの供述と食い違いを見せるのである。これを明らかにする為、天候や気象の条件を同一にして再現実験を行なった。

付近には街灯もなく、何も見えないほど暗かった。実験結果として、事件当夜、実際に佐野屋前に立った被害者の姉、登美恵さんの供述通りの状況であり、石川一雄被告人の自白にある「暗闇の中、女の人が立っていた」という判別は出来ないことが実証された。写真二点は「無実の獄25年 狭山事件写真集  部落解放同盟中央本部中央狭山闘争本部編  解放出版社」より転載。

狭山の黒い闇に触れる 370

【公判調書1352丁〜(21/21)】供述調書 石川一雄

右の者に対する恐喝未遂等被疑事件につき、昭和三十八年六月十一日狭山警察署において、本職は、あらかじめ被疑者に対し、自己の意思に反して供述する必要がない旨を告げて取り調べたところ、被疑者は任意左のとおり供述した。

中田○○(被害者名)さんの件について申します。

○○(被害者名)さんを殺したり、関係したり、死体を埋めたり、脅迫状を書いたり、二十万円取りに行ったりした事は三人でやった事です。

「問」三人と云うのは、誰か。

「答」一人は私なのだが、あと二人はどうしても云うつもりはありません。

「問」そういう事をやった場所は何処か。

「答」私の家の近くでない事だけは云えるが、その他のことは云いたくありません。

「問」死体を埋めた場所まで運んだのはどうやって運んだのか。

「答」自動車でなければ運べないでしょう。また私に云える事は死体が縛られていた筈は無いということです。

(問)一緒に事件をやった二人の名前は何故言えないのか。

(答)私は義理と人情を重んじる方で、もし事件の内容を詳しく云うと、その相棒達の名前も自然に判ってしまうからこれ以上のことは云いたくありません。なお私は女との肉体関係は今迄やった事がありません。それはどういう訳か判らないが、女の子と付き合うまでは普通の若い衆と同じだが、関係したいという気があまり起きないのです。だから○○(被害者名)と関係したのは私ではありません。以上の通り相違ありません。なお私は裁判になったらこの事件のありのままを全て裁判所に申し上げるつもりで、その時にはこの事件で私がどういう事をやったか、又、相棒達がどういう役目をしたか全て申し上げます。五月一日のことは全部申し上げます。

右のとおり録取し読み聞かせたところ誤りのない旨申立てたが、署名指印を拒否した。

浦和地方検察庁 検察官検事 ・河本仁之、検察事務官・橋上  英。

この写真は狭山弁護団、解放同盟、その他の支援団体による事件の再現実験の模様である。中央の人物が身代金を持った被害者の姉という想定で、この状況においてどれだけ周囲の状況を把握出来たか、など詳細に検証されている。 

狭山の黒い闇に触れる 369

【公判調書1348丁〜(20/21)】供述調書 石川一雄

右の者に対する恐喝未遂被疑事件につき、昭和三十八年六月九日狭山警察署において、本職は、あらかじめ被疑者に対し、自己の意思に反して供述をする必要がない旨を告げて取り調べたところ、被疑者は任意左のとおり供述した。

(一)私は、パチンコ店へは入間川で3軒くらい、所沢で四軒くらい行った事があります。入間川ではオリオンパチンコ店、八幡様の近くのパチンコ店、天神様近くのパチンコ店でした。その中では、オリオンが一番多く行ってました。所沢では、東莫や駅前のパチンコ店、安定所の近くのパチンコ店に行った事があり、この中では東莫と駅前が一番多く行っております。本年五月一日は、思い出しましたが、家を出る時は働きに行くと云って弁当を持って出た記憶があります。その弁当は、前に云った様に西武園に行って時間を潰した際、西武園で喰べました。

(三)私は、報知新聞を見た事はありますが、競輪の欄だけしか見ません。それも前日の競輪でどんな組の番号のが配当が多かったかを見るだけで競輪選手の名前等は読めませんし、見ようとも思いません。前日の競輪で配当の多かった番号の組み合わせが例えば5-6だったとすれば、その日競輪で選手の事等は構わずに5-6の組み合わせの車券を買っておりました。それで競輪の予想屋に金を払って聞いた事も無く、選手の名前を覚えていてその選手の組み合わせを買う様な事はしませんでした。私はその他に新聞を何回か買って見たことがありますが、記事を読む事はなく、テレビの番組を見るために買っていました。本年五月十日頃にも新聞を買って番組を見たことがあります。その他に、石田さん方に居る時、平凡という雑誌を買った事がありますが、私は平凡を読む心算ではなく、女の写真等を見る心算でした。然しその雑誌は本屋から買って来て、袋に入ったまま戸門の家にくれてやりました。石田義男から、自動車免許を取る為の本を一冊借りたことがあります。その時は義男が、これ読んで試験の時は○×をつければいいから読んで見ろと云って貸してくれましたが、私はそんな本は読めないのでそのまま持っていましたが、どうなったか判りません。義男は要らないと云っていたので返さなかったと思います。石田方を辞める時は、持って帰らなかったので石田方に残っているか、或いはどうかなってしまって無いかも知れません。

「問」君は、子供、命、東西武園、池、刑事、知る、友の漢字を書けるのか。

「答」私はそんな漢字は書けません。然し、誰かが書いていて見せてくれれば真似て書く事位出来るかも知れません。

「問」住所、氏名は漢字で書けるのか。

「答」それは書けます。

(三)東鳩に居た頃の恋人の海老沢きく江とは、三十六年一月までしか付き合っておりません。その理由は私の友人の小林よしおが三十五年暮の忘年会の時、海老沢に酒を飲ませて送って行った際、無理に海老沢と肉体関係をした事が判りました。その事は三十六年一月三日だと思いますが、海老沢が泣きながら私にその事を言って謝り、別れてくれと云って、私に皮の手袋、ライター、時計をくれました。その時から海老沢とは交際しておりません。本年一月頃、石田さん方で働いている時、海老沢に会いに行くと云って休んだ事がありますが、勿論それは嘘でした。休むのに適当な理由を付けて休んだだけです。海老沢から鎖についたメダルの様な物を貰ったと云った事がありますが、それも拾った物で嘘を云ってからかったらだけです。

(四)石田さん方に居る頃、農家から頼まれて豚に踏ませる葉を所沢に取りに行った事が一回あります。同じ様に豚に踏ませる為の葉を取りに行った事が、佐野屋の前の農家に五、六回、松本さん方から二、三軒下の家に行った事が一回ありますが、その他には葉を取りに行った事はありません。

「問」中田○○(被害者名)さん方の隣に藁か菜っ葉を取りに行った事はないか。

「答」それはありません。

(五)中田○○(被害者名)さん方は同人が殺された後テレビを見ていたところ家の前に花輪が並べてある場面が写りました。そのテレビを見て私はあの付近を何回か通っているので、ああ、あの家かと判りました。それで、その前から中田○○(被害者名)さんやその家を知っていたのではありません。そのテレビを見て判った中田○○(被害者名)さん方の隣に藁や菜っ葉を取りに行った事は無いと云えるわけです。

(六)中田○○(被害者名)さん殺しの事件があった後で、石田一義さんが入間四丁目に来て、私がキャッチボールをしていた時、私に「お前がやったのではないか」と云うので私は「俺ではない」というと「血液は何型だ」と聞くので「A型だ」と答えました。私は去年の十二月頃、日暮里駅から五、六分ぐらい行った所で血を四回くらい売った事があり、一回目と二回目はB型と云われ、三回目はA型と云われ、四回目に行った時はまたB型と云われました。それで私はA型と云われた時もあるので、A型と云ったわけです。

「問」君はA型とも云われ又三回目はB型と云われている訳だからB型でもあると何故答えなかったのか。

「答」A型と云われた事があるから、A型と云っただけで理由はない。血を売ったところは日暮里駅の山手線の外側になる方です。

「問」君が東鳩で野球をした時に貰ったタオルに月島食品工業株式会社と書いた物があったか。

「答」字が読めないからそういうのがあったか無かったか判らない。

(七)私は、本年五月一日の午後七時過ぎ頃、堀兼の方に行った事は勿論ありません。私を見たという人があったとしてもそのような事がある筈なく、その人が嘘を云っていると思います。

(八)私は、中田○○(被害者名)さん方に投げ込まれたという脅迫状の写真にした物を警察の人が見せてくれましたが、私の字に似ているなと思う字もありました。似ている字が何というか字であったか忘れました。しかし、いくら似ていても私が書いたものではありません。

(九)私方には貰った手拭いやタオルの新品の物を沢山納ってあります。私が仕事に行く時など手拭いを使う時は、家の者が取ってよこします。私が勝手に新品を持ち出すと兄ちゃんから叱られておりました。五十子米屋から貰った物も納ってあったように思います。東鳩製菓で私が貰ったタオルも納つてありました。働きに行く時はタオルを持って行く事もあり手拭いを持って行く事もあり、母ちゃんがよこした物を持って行っておりました。タオルと手拭いと二本も持って出た事はありません。

(十)私は石田さんに居た際、万年筆で蓋のない物を入曽で拾って持った事がありますが、一回も使いませんでした。インクと万年筆を揃えて持っていた事はありません。

(問)君はボールペンを持っていた事があるのではないか。

(答)ボールペンを自分の物として持っていた事もなく、持ち歩いた事もありません。しかし私の家にはボールペンがありました。多分兄ちゃんの物と思いますが色は普通の青い色でした。赤い字を青くボールペンも兄ちゃんが持っていたように思います。

右のとおり録取し読み聞かせたところ誤りのない旨申立て署名指印した。

浦和地方検察庁  検察官検事  原  正  検察事務官  滝沢  弘

(一)の供述にでてくるパチンコ屋「オリオン」。看板の「チ」と「ン」が崩落しているが、もしタイムマシンが開発された場合、真っ先に打ちに行きたい!と思わせる風情を漂わす。どんな機種が設置され、その機種には攻略法が存在したのか、など、カクテルAの時代からアレンジマンやマジカルランプの体感器攻略まで実績した老生には胸騒ぎが起こる店舗である。

狭山の黒い闇に触れる 368

【公判調書1345丁〜(19/21)】供述調書  石川一雄

右の者に対する恐喝未遂等被疑事件につき、昭和三十八年六月八日狭山警察署において、本職は、あらかじめ被疑者に対し、自己の意思に反して供述する必要がない旨を告げて取り調べたところ、被疑者は任意左のとおり供述した。

(一)私の家で炬燵のある部屋は玄関を入って直ぐのテレビのある部屋です。私と弟の清は本年四月二十五日頃まではこの部屋で炬燵の両側に布団を敷いて寝て居りましたが、四月二十五日頃、炬燵のやぐらを取って畳を入れました。その後はお客がある時等その部屋を使ったりするので、私は四月二十五日頃からテレビのある部屋の奥の、お勝手の方の四帖半に寝るようになりました。弟の清はテレビのある部屋に寝たり私と同じ部屋に寝たりしておりましたが、五月三日から板橋の姉さんが来て泊まっていたので、約一週間くらいは寝る部屋の順序が多少変わりました。そのことについて、この前に私が炬燵のある部屋は玄関の奥のお勝手の方の四帖半と云った様に調書に書いてあるそうですが、それは私が間違えて云ったと思います。

(二)東鳩製菓に勤務している頃、私は野球のチームの一員でキャッチャーをしていました。私の近くの石川辰夫も同じ東鳩で働き、野球をしていました。野球の試合の時、参加者に会社からタオルや手拭いをくれた事があり、私もタオル三本くらい貰いました。タオルは東鳩の会社のタオルだと思います。貰ったタオルは持って帰ったので家で納つてあるか使ったか判然した事は判りません。東鳩に居る頃、海老沢きく江という同じ会社に働いていた恋人が居ました。その女とは手も握った事も無く肉体関係した事は勿論ありません。

「問」君は東島明や石田義男等に対し海老沢きく江と東鳩の倉庫の中で肉体関係をしたと云った事はないか。

「答」そんな事をふざけて話した事は二、三回あります。なお私は女と肉体関係した事は今迄一度もありません。私が海老沢きく江に手紙を出した事が十回位ありますが、この手紙は自分が書いたのでは無く、板橋に嫁に行った姉さん、姉さんの婿さんに当たる石川仙吉さんに書いて貰って出しました。私は手紙は書けないし読めないので、きく江さんから来た手紙は読んで貰ったり返事を書いて貰ったりしていたわけです。

(三)東鳩を辞めたのは、競輪をするのに友達が私に金を預け車券を買ってくれと頼まれました。金額は、佐藤秋男から千五百円。明智武から五百円預かりましたが、車券を買わずに西武園の競輪には行きましたが自分の為の車券の費用に使ってしまいました。その事から会社に行きづらくなって東鳩を辞めてしまいました。佐藤さんは私に五百円預けたと云っているそうですが私は千五百円預かった様な気がします。東鳩での私の仕事は流れ作業の中で菓子を缶に入れる作業でした。海老沢きく江は、その菓子の目方を計ったりしていました。

(四)石田豚屋の戸門の方の豚小屋の物置には電燈は引いてありますが夜は消してありました。その物置の方に行く入り口には犬が繋いであり、知らない者が行くと吠えますが勿論私には吠えませんでした。然し、豚屋を辞めてから三日ぐらい行きましたが三月四日以降は石田一義さん方付近に行った事は一度もありません。私が一義さん方に居た頃の、野放しで飼ってました豚の見張小屋の方には電燈は取ってありませんでした。現在でも無い筈です。その見張小屋の入り口はドア式で、鍵がかかる様にはなっておりません。

右のとおり録取し読み聞かせたところ誤りのない旨申し立て署名指印した。

浦和地方検察庁 検察官検事 原  正  検察事務官  滝沢  弘

(一)で石川一雄被告人により語られた部屋は上の写真か下の写真のどちらかであろう。

しかし、そのような事はどうでもよく、いずれにせよ、穏やかに慎ましく暮らしていた石川家に突如訪れた災いは、その結末が石川一雄氏に第一審判決=死刑を宣告されるという、不条理さから言えば自然災害に等しい、いわば天災が直撃したと言って良い災難に晒されるのである。だが、その根源を辿る時、関源三や長谷部梅吉、清水利一の名が事件の暗闇から浮かび上がるのは気のせいだけではない事は確かである。(二点の写真は狭山事件公判資料より引用)

狭山の黒い闇に触れる 367

【公判調書1342丁〜(18/21)】

供述調書  石川一雄

右の者に対する暴行、窃盗、恐喝未遂被疑事件につき、昭和三十八年六月二日狭山警察署において、本職は、あらかじめ被疑者に対し、自己の意思に反して供述をする必要がない旨を告げて取調べたところ、被疑者者は任意左のとおり供述した。

(一)私は、狭山市内のオリオンというパチンコ屋に行った事もありますが、出が悪いので所沢に数年前からパチンコに行っており、東莫というパチンコ屋にも何十回も行き、競輪がない時もぶらぶら遊ぶのに丁度いい場所だから時々行っております。堀兼の、豚を飼っている石田一義さん方には昨年の九月か十月の末から二月の末まで住み込みで働き、給料は一万八千円貰っていました。そこに勤めている間で休んだのは四日しかありません。友達の東島は去年の夏頃から十二月頃まで同じ一義さん方で働いたので私も二ヶ月くらい同人と一緒に働きました。石田さん方では一義さん、義男さん、それに私や東島、それから一義さんの兄のトリちゃんも時々手伝いに来ていました。豚のえさは、毎日三回自動車で自衛隊の残飯を取りに行きますが、その時間は、朝七時三十分頃、昼一時頃、夕方五時半頃で、家を出てから帰って来るまで二時間位かかります。自動車は、薬研坂を通り狭山精密の前を通ってかよっていました。私がいる頃は、松本さん方の裏側を借りて一義さん達は住んでいましたが、私や義男は食事に行くだけで、豚を飼っている所の小屋で過ごし、夜もその小屋に泊まっていました。その小屋には高橋良平等も女を連れて泊まりに来たこともあり、私の知らない若い者が何名も泊まった事もあります。豚を飼っている所には犬が居りましたが何れも鎖で繋いであり、泥棒の番をしておりました。知らない者が入って来ればその犬が吠えていました。豚にえさをくれるスコップは、とかどの脇に二本、私達が居る小屋の方に二本あり、その外にもう一本位納ってありました。

(二)私は、一義さん方に居る時は、ゴム長靴を履いて作業をしました。同人方に行く時、地下足袋を買って行ったのですが、辞める時、置きっ放しにして帰って来ました。三月になってから家の者に石田方を辞めたとも云えないので昼間は遊びに行き、夜は石田方の豚の見張小屋に泊まりました。それが三月一日、二日、三日の三回ありました。

(三)石田さん方を辞めて自宅に帰ってから、遊びに行く時は長靴を履いたりサンダルを履いたりしていました。仕事に行く時は長靴でしたが、二回ぐらい兄ちゃんの地下足袋を借りて履いて作業に行きました。兄ちゃんの地下足袋は四、五足ありますが少し小さいので、私が履くと足に入るのは入りますが親指が下に曲がるし、夕方まで履くと足が痛くなってしまいます。兄ちゃんは地下足袋を私の足に合うものを買ってやると云っておりましたが、とうとう買ってくれませんでした。

(四)私はナイロンのジャンパーを持っていましたが、石田さん方に置いたままで辞めてしまいました。その他に白いレインコートを持っています。その他に今着ている木綿のジャンパーを普通に着ておりました。仕事に行く時兄ちゃんの作業衣を借りて行った事もあります。ズボンは、今履いている紺色のジーパンと茶封筒の色のようなズボン、それに薄い緑のズボンの三本を持っています。私が盗んだ、上下続きの薄水色の作業衣は遊びに行く時着て行った事があり、相当汚れていたので日は忘れましたが、母ちゃんが洗濯しました。

(五)私の家では六帖が一間、四帖半が三間あり、六帖の間に父ちゃん、母ちゃん、妹二人が寝ており、便所のある方の四帖半に兄ちゃんが一人で寝ます。私と弟の清は、冬の間はテレビのある部屋に寝ていましたが、四月二十五日頃、奥の四帖半の炬燵を取って普通の畳敷きにしたので、それから私が一人で奥の四帖半に寝ましたが、時には清もその部屋に来て寝るし、五月三日に板橋の姉さんが来て何日か泊まったので、その時は母ちゃんも奥の四帖半のその部屋に寝ました。

(六)私の家は、玄関と風呂場の脇の入口の二ヶ所から出入りしておりますが、夜になると大体玄関から出入りしています。五月一日と二日の晩に兄ちゃんが夜十時頃帰って来ましたが、その時は風呂場の脇の入口から入りました。兄ちゃんが帰った時は起きてテレビを見ていましたが、どんなテレビでしたか忘れてしまいました。五月一日と二日の晩は今云った奥の四帖半に私が一人で寝ました。弟はテレビのある部屋に寝たか或いは夜勤だったかも知れません。

右のとおり録取し読み聞かせたところ誤りのない旨を申し立て署名指印した。

浦和地方検察庁川越支部  検察官検事 原  正     検察事務官  滝沢  弘

事件当時の石川一雄被告人宅。写真は昭和三十八年六月十八日付捜索差押調書より転載。このテレビがある四帖半の部屋で、石川被告人と弟は、やがて降りかかる壮絶な悪夢など知る由もなく安眠を貪っていたのであろう。これはしかし、老生とて枕を高くしては寝られないのだ。いつ権力の標的にされるか分かったものではない。この狭山事件は、冤罪被害者にならぬ為の予防を喚起する意味でも知っておいた方が良い案件である。

狭山の黒い闇に触れる 366

【公判調書1340丁〜(17/21)】供述調書  石川一雄

右の者に対する暴行、窃盗、恐喝未遂被疑事件につき、昭和三十八年六月一日狭山警察署において、本職は、あらかじめ被疑者に対し、自己の意思に反して供述をする必要がない旨を告げて取り調べたところ、被疑者は任意左のとおり供述した。

(一)前科はありませんが少年の時調べを受けた事が三回あります。私の家族関係や今迄の職業等は警察で話したとおりです。

(二)私は前  警察で聞かれた時、五月一日は兄ちゃんと一緒に水村しげさん方のトタン張替えの仕事に行ったと云ってたのでしたがそれは嘘を云ったのです。嘘を云った理由は、五月七、八日頃、父ちゃんが私にお前は五月一日遊びに出ているので、疑われては困るから兄ちゃんと一緒に水村さん方の仕事に行った、という事にしておけと云われており、その後で私が兄ちゃんにもその話をしておいたので、警察では、その様な嘘を云ったわけです。本当の事を云うと、五月一日は七時十分か三十分発の電車で入間川から西武園に行き、西武園で下車して付近の山の中に行って時間を潰しました。その山の中で大きな木の切株に腰をおろし、履いていた長靴の底に敷いていた新聞紙が湿っぽくなっていたので、新しい新聞紙と取り換えて両方の長靴の底に敷きました。新しい新聞紙は家から持って出たのか、電車の網棚にあったのを持っていて取り換えたか その点判然しません。敷いてあった新聞紙は長靴の底に合う様に一枚を折り畳んで使って、それで、両側の折った部分が破れたりしておりました。私の家では毎日と報知の二つの新聞を取っていると思います。

(三)その山の中で二時間くらい時間を潰して、また西武園から所沢まで電車で行き、十時十分頃から東莫というパチンコ屋でパチンコをし午後六時頃までおりました。その店では、二十二番の機械で最前部から夕方五時頃まで遊び三百十ヶ位儲けました。昼飯は食べませんでした。

(四)それから午後六時四十一分か七時十一分頃の所沢発の電車で入間川に帰り、七時半頃家に帰りました。その晩十時頃兄ちゃんが皮ジャンバーをびしょ濡れにして帰って来ました。が入曽へ行って、と云っておりました。

(五)五月二日は、午前中は犬小屋作り、午後は川本ヤスオと入間川映画館に行き、午後六時頃帰ってその晩はどこにも外出せずに寝ました。五月三日は、午前中近所の友達と入間川小学校で野球をして遊び、午後は兄ちゃんと一緒に近所の水村クニちゃん方の新築現場の土台のコンクリート打ちをやりました。なお二日の晩は、兄ちゃんが十時頃帰って来たように思います。石川一雄

右のとおり録取し読み聞かせたところ誤りない旨申し立て署名指印した。浦和地方検察庁川越支部  検察官検事  原  正   滝沢  弘

写真は事件当時の入間川駅(現・狭山市駅)

右上には僅かに 「入間」との駅名の一部が確認できる。なお、この魅力的な駅舎はとうの昔に消え去り、現在は無駄に巨大で無機質な、あまり利用したくない、早くその場から立ち去りたいオーラを放つ、負のパワーに満ちた駅と成り果てている。お気に入りの狭山中央図書館や狭山事件現場探訪で、仕方なくこの駅を利用しているが、狭山の持つ魅力をこの駅舎がほぼ破壊しているのだと、駅改築に携わった関係者は分かっておるのか。いつだったか、老生は故郷の岩手県に帰省するため東北本線に乗り、途中、電車の乗り換えのため駅舎で待機していた。まず気がついたのは傷だらけの木製ベンチである。決して座り心地が良いわけではないが、その飴色に輝く、傷に満ちた木のベンチは思わず駅舎の歴史に思いを馳せてしまい、時の経つのを忘れさせた。老生が正気に戻ったのは、駅舎内ではしゃぐ子供たちの嬌声であった。駅舎で遊んでいるのだ。近くに親はいなかった。何か自由で、地元に愛されている・・・。確か無人駅だったと記憶しているが、この様な駅舎が存在することに老生は感激したのである。出来れば今日、ここに泊まりたいとまで思わせる駅舎、これが大事ではないかと、現・狭山市駅に向かい小声でつぶやいた。

狭山の黒い闇に触れる 365

【公判調書1336丁〜(16/21)】

供述調書(甲)石川一雄

右の者に対する強盗強姦殺人死体遺棄被疑事件につき、昭和三十八年六月十八日川越警察署分室において、本職は、あらかじめ被疑者に対し自己の意思に反して供述をする必要がない旨告げて取り調べたところ、任意次のとおり供述した。

(一)私は、去年の十月一日から今年の二月二十八日まで堀兼の石田豚屋に勤めました。その時の友達は、義ちゃん、東島、荻野清、小野という二十一か二の男、高橋良平、戸門勇等がいてよく夜遊びに出ましたが、この友達とは豊岡の方へ遊びに行きました。入間川には、四丁目で生まれて、小学校五年を終わり学校の友達もいるので二十人くらい居りその他入間川ジャイアンツという野球チームに入っていたので、その方の友達が三十人くらいいます。私より友達としては年上の人が多くいます。私が石田豚屋にいた頃の友達とは今でもつきあっています。

(二)私は石田豚屋にいた時は今、石田かずすさん(一義のことをそう呼んでいました)が住んでいるそばの豚の番小舎に住んでいて、義さんと東島が一緒に泊まっていました。東島は早く辞めてしまったので二ヶ月か三ヶ月くらいしか一緒ではありません。その頃の豚小舍は戸門の家の東側にありました。私達が寝ていた側に放し飼いの豚が四百くらいいました。戸門の東側の豚小舎から○○(被害者名)さん殺された頃スコップが盗まれたということは私も知っています。あそこには私がいた頃は豚が百五十頭くらいいました。その豚小舎のところには何時もスコップが二挺くらい置いてありました。このスコップは私がいた頃は家の中のドラム缶の中に置いたり家の中へ立てかけて置いたりしたこともあり、川のへりの道端にもドラム缶があってそこへ置いたこともありました。夜置きっ放しにしたことありました。豚小舎の入口には黒い犬が何時も繋がれていました。あの犬はよく吠える犬でした。この犬はよく喰うので「ガズ」とか「バカ」と呼んでいました。私は犬が好きで自分の家にも飼ってありますが、この「ガズ」も私にはよく懐いでいました。ですから今でも私が入っていったとしても夜でも平気で入れます。

(三)私は十七の時、保谷の駅前にあったプレス工場に一ヶ月くらい勤めたことがありましたが、その時私は右の人差し指の先の方をプレスで落としてしまい、今でもこの爪は四分の一くらい元の方が残っているだけです。その時の治療代は保険でやって貰ったので家の者にはあまり迷惑をかけませんでした。その頃の私の家では畑を三段くらい。やっていました。その内の一段は狭山精密の焼場の側に一反位、入曽へ行く通りの日野電気の側に一反位、それから入間川の飛行場の棚の側に一反位ありました。私はその頃時々畑へも行ったこともありました。

(四)私は御調べの事件は、私と入間川の男と堀兼の者と三人でやったのですが、その相手の名前は言えません。それを言えばその人達が捕まるからです。このことは弁護士さんにも話してあります。詳しいことは裁判所で話します。

(五)○○(被害者名)さんの家へ届けた手紙のことは裁判所で話します。

(六)私は小学校四年か五年頃に学校のブランコから落ちて左足を折ったので、今でもよく曲がりませんが歩く時ビッコを引くよう(・・・ここで落丁している)

(添付されたメモ)

*本文とは関係無いが、なんとか今年の猛暑を乗り切り、待望の秋を迎えられそうだ。秋虫が鳴く中、秋刀魚や秋鮭を焼き、大根おろしと共に一杯、である。秋の大切さをしみじみ感じる。