(前回からの続き)
三、犯行の偶然性と量刑不当
(1) 被告人が当初から被害者を殺害する意思のなかったことは原判決も認めるとおりである。前述第五点第一項で述べたように被告人には殺害の故意はない。せいぜいあって認識ある過失である。被告人は誘拐の意図を持っていたとしても強姦と殺害は全くの副産物である。取り返しのつかない副産物であるとしても、被告人としては決して殺害まで望んでいたのではない。姦淫に夢中のあまり、死に至らしめたのであって殺してまでも姦淫の目的を達しようとしたのではない。右の主張にそわないような作為的な供述調書が二、三あるとしても、被告人の全供述調書の中に一貫してみられるのは殺害の意図の否定なのである。
(2) 被告人が被害者=中田善枝と小学校近くの淋しい路上で出会ったと云うことは二人にとって全くの不幸であった。「被告人が判示加佐志街道で中田善枝に出会い、同女により右計画を達成しようと決意した当初は未だ同女を殺害し、その死体を埋めて犯行を隠蔽することまで考えていたとは思われないところ……」と原判決も述べているように、この出会いは不幸な偶然であった。被告人の本件犯行のはじまりは、いわゆる魔がさしたと云われるものである。被告人、被害者を不幸のどん底に突き落とさざるを得なかったものである。血を見て逆上するように当初行なった一つの犯行が次の犯行を呼び、次の犯行が第三の犯行を呼ぶというように不幸に不幸が積み重なっていたのが本件犯行の実態である。弁護人は本件犯行のこの偶然の発生と広がりは被告人の刑の量定にあって考慮されるべきだと考える。原判決は被告人の行為を単純に「鬼畜の所行」と述べているだけで、この間の被告人の心情と不幸を無視している。被告人の不幸にも一掬の涙(注:1)せざるを得ないのである。
注:1「一掬の涙(いっきくのなみだ)」=両手ですくうほどの涙。または、ほんのわずかな涙の意でも用いる。
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四、被告人の経歴、日常生活と量刑不当
被告人が小さい時から父母のもとを離れて、いわゆる他人のめしを喰いながら成長したことは原判決も認めている。そのことが被告人の人格形成にとって大きい影響を与えたであろうことも原判決は認めている。おそらく家庭愛の不足と苦しい心情と性格を知らず知らずのうちに蝕(むしば)んでいたのであろう。
昭和三十三年の秋、被告人十九才の時、東鳩製菓に勤め、ここに三年ばかり働き昭和三十六年秋から西川土建、昭和三十七年十月から三十八年二月まで石田養豚屋に働いた。
石田養豚屋での約五ヶ月間に被告人は判示第四の罪(うち第八の横領を除き)を連続犯している。原判決はこれを捉えて「被告人の不良性反社会性を表すもの」と云うのであるが、しかし石田養豚屋に入るまでの被告人には何ら問題にするところない如く普通の青年だったのである。
先に述べたように無口で大人しい性格であったから、友人はそう多くはなかったが、交際していた少数の友人からは好かれているのである。西川証言からも分かるように、被告人は黙々として仕事に励み、同僚には親切、指示にはよく従う申し分のない若者であったのである。不良でもチンピラでもない。家にあっても被告人は他の兄弟に対して乱暴な態度や言葉を使ったこともなく、家にいるのかいないのか分からない程の大人しい存在だったのである。時折は土産を買って帰る心やさしい青年であった。被告人は競輪やパチンコが好きですが度を越すという程のことはなかった。また煙草は多少吸うが酒は飲まず、酔って問題を起こしたことなどは一度もないのである。
しかし、石田豚屋の五ヶ月間は、それまで内にひそんでいた被告人の性格の歪みや精神的偏奇を顕在化したのであろう。使用者自ら窃盗を指示命令するような悪い環境の中で被告人はたちまち毒されてしまったのである。石田養豚屋を辞めてから本件犯行に至るまで約二ヶ月間くらい、被告人は家にいてぶらぶらと遊んでいた。労働の生活に慣れている被告人がこのようにぶらぶらと遊ぶようになったのも、この石田養豚屋以降であり、石田養豚屋の五ヶ月は被告人の本件犯行と密接な関係ありと云わざるを得ない。この労働の生活を離れて二ヶ月が被告人の本件犯行の出発点である誘拐の企みを育んだ時期なのである。石田養豚屋での生活を明らかにするために弁護人は石田一義を証人として取調べるよう請求したが、原審裁判所は却下した。そのため、被告人が何故、石田養豚屋を辞めたのかその理由もよく分からない。要するに被告人の不良性、反社会性というのは、根付いた一貫したものとして、幼少の頃からあらわれて来ているのではない。
被告人は悪しき環境の中では、たちまち悪い影響を受けると云う弱さはあっても、決して根っからの不良でもなく悪党でもない。被告人はやくざ組織や暴力団組織に関係したこともなく逮捕歴や前科もない。本件犯行を見ても、被告人にそのような犯行に堕ち入ってゆくであろう必然的な堕落の道を進んできたものとは見受けられない。一時的なぶらぶら状態を脱すれば、また立ち直って容易に前のように真面目な勤労生活に入る見通しがあったのである。本件犯行の勃発は被告人にとっても不幸な偶然であったのである。
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五、被告人の改悛の情
現在、被告人は本件犯行について深いお詫びと後悔の気持ちを持っている。被告人の心境については関=証人が切々と訴えたとおりであるが、同様のことは我々弁護人もまた証言できるであろう。被告人は何回となくその供述調書の中で、中田さん一家に対してお詫びの言葉を述べて自分の過ちを述べている。
例えば六月二十五日検察官に対するこの日の第一回目の供述では「私はその前まではこの事件に関係ないと嘘を云っておりましたが、房の中で善枝ちゃんの夢を見たり、また殺した時のことを考えると眠れなくなったりして、このまま隠しておくことがどうしても出来なくなりました。また色々証拠も出ているので隠しても判ることだと思い、この際、全部本当のことを云って善枝ちゃんや善枝ちゃんのお父さん等にお詫びしたいと云う気持ちになりました。
それでお願いですが善枝ちゃんのお父さんに一度会わせて下さい。善枝ちゃんを殺したことをお詫びし、私の家の父ちゃんや母ちゃん等は何も関係ないので、家の者を恨まないよう頼みたいと思います」と述べている。
また七月五日の検察官に対する供述調書中でも、「そのようなことから私は善枝ちゃんを殺して悪いことをしたと本当に心から詫びました。川越(=警察署)に来てから房の壁に、爪の先で
"丈夫でいたら一週間に一度づつ線香をあげさせて下さい"
と書きましたが、その事をもし出られたら善枝ちゃんの墓参りをしてお詫びをし、少しでも私の罪を許してもらいたいと思ったからです」と述べているのである。
被告人は、また家族思いである。先ほど、被告人は自分の家族を恨まないよう頼んでいたが、はじめの頃の供述では何故自分が自供できなかったかを説明して、家族の者がどんなに辛い目にあうかと思うと自供できなかった旨述べているのである。
六、むすび
被告人が逮捕された当時から一部の強力なマスコミは、被告人を真犯人と決めつけて被告人の残忍な性格とか陰険とか、あることないこと書いていた。現在に至るまでこのようなマスコミの態度によって、知らず知らずのうちに人々は被告人に対する偏見を培(つちか)っている。偏見にとらわれず、事実の真相を見極め被告人の情状を見極めることが極めて大切になってきている。時あたかも捜査官の重大な手ぬかりのため吉展ちゃん事件の犯人は逮捕されず、世論は無能だった捜査当局に対する批判と共に非道な吉展ちゃん誘拐犯人に対する憎しみを燃やしていた。
このような時に本件が発生した。被告人は今や誘拐犯人に対する総憎しみの対象となった感がある。全ての誘拐犯人を代表して被告人が罰されようとしている。原判決は「なお本件は、あたかも東京都内に発生したいわゆる吉展ちゃん事件が世上に騒がれていた最中に行なわれたことにより、全国の人心に極度の恐怖と不安を与えたことも無視できないところである」と述べているが、その背後には被告人を見せしめにして、これからの誘拐犯人の絶滅を期そうとする態度は窺(うかが)われないであろうか。原審裁判所の判決に至る異例の早さは被告人を見せしめにし、これからの誘拐犯人の絶滅を期そうとする態度は見えないだろうか。刑の一般予防を強調するのはいい。しかし、刑はまた、具体的に刑の宣告を受ける被告人その人の立場を充分に考慮してなさなければならない。所詮、犯罪は社会の産物であり、犯罪者もまた社会の産物である。現在の我が国の性道徳をはじめ、一般道徳の退廃、犯罪の増加とを背景にしてみれば、本件の場合も、一人被告人のみを責めるのは酷である。被告人も人の子である。被告人の父母兄弟は、被告人が罪を犯したことに泣き、死刑の判決を受けたことに泣いている。被告人の父母兄弟もまた中田一家と共に本件の被害者である。死刑は取り返しのつかない刑罰である。一旦刑が執行されれば被告人が二度と社会に戻れない。
いまだ二十五才の青年で今後の教育と善導如何では容易に立ち直れる能力と素直さを持っている。被告人は決してすれっからしではない。原審裁判所は充分に調べを尽くさず極刑の判決を云い渡した。
弁護人としては、到底承服できる判決ではない。
当裁判所においては、被告人の生い立ち、性格、境遇、誤って死に至らしめた事情、被告人の改悛の情、被告人の家族の心痛などにつき充分な審理を遂げられて、本件被告人に死刑の判決は重すぎるとの断固たる判断を下さることを望んで控訴趣意(の量刑不当:筆者注)を終ることにする。
以上
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◯以上が、控訴趣意書のうち弁護団が主張しないことを表明した「第六、量刑不当」の部分である。表明した日付は昭和四十八年十一月二十七日。
ここで簡単に整理しておこう。
昭和三十八年五月「狭山事件発生」
昭和三十八年九月「第一審公判開始」
昭和三十九年三月「第一審 死刑判決」
昭和三十九年六月「弁護団が控訴趣意書を提出」
昭和三十九年九月「第二審公判開始」
昭和四十八年十一月「控訴趣意書のうち"第六、量刑不当"は主張しない旨表明」
昭和四十九年十月「第二審 無期懲役判決」
「第六、量刑不当」の内容を見ると、これを第二審の終盤まで主張していたことにやや驚く。例えば被告と被害者の出会いに関して、『二人が路上で出会ったことは全くの不幸であった』という記述であるが、この文章は被告と被害者が路上で出会ったということを肯定していると考えられる。これは捜査当局が描いた筋書きを認めているということではないか。さらに文章は続き『被告人の本件犯行の始まりは、いわゆる魔がさしたと云われるものである』『血を見て逆上するように当初行なった一つの犯行が次の犯行を呼び、次の犯行が第三の犯行を呼ぶというように不幸に不幸が積み重なっていたのが本件犯行の実態である』とも書かれている。つまり犯行は被告によるものとの前提に立った文章と言えよう。そして『被告人の不幸にも一掬の涙せざるを得ない』と続いている。
第二審(控訴審)の冒頭で石川被告は「裁判長、私は善枝さんを殺してはいない、このことは弁護士にも話していない」と犯行を否認しているはずであるが。
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今年豊漁のサンマ塩焼きで晩酌が進み、もうこれ以上は脳が機能しなくなった。明日考えよう。
そう思いながら何となく寝床で前述した件を調べると、おお、即座にその答えが判明したのである。それとは、
『弁護人の中田直人らは自白や物証の疑わしさを衝き、また警察による違法捜査の可能性を指摘し、無罪を主張した。ただし一審の段階では石川被告が犯行を認めていたため、弁護人=橋本紀徳の最終弁論もまた、本事件が石川の犯行であったことを前提に、石川に前科がなかったこと、出来心による犯行であったこと、意図的に殺したのではなく誤って殺したことを強調し情状酌量を狙う内容となっていた』
ということであった。なるほど。