(前回からの続き)
二、審理不尽と量刑不当
(1) ところで弁護人は、原審第八回公判期日及び第二回公判期日の二度にわたって、被告人の精神鑑定の請求をした。しかし、原審裁判所はいずれもこれを不必要として却下した。このように、原審では被告人の精神鑑定を行なわなかったにも関わらず、原判決は、被告人の精神状況が健全であり正常であると断言しているのである。
原判決はその判決文の"弁護人等の主張に対する判断"が、第三項(二)の後段の部分で「被告人の当公判廷における供述態度は正常であり、その供述内容も極めて明快であること、犯行時の行動が計画的に順序立てて行なわれていること、生い立ち、経歴において特段異常な性行のあったことも、血統上遺伝的負因の存することも何等認められないこと等に徴すれば(幼少時、被告人に数回夢遊病者的行動があったこと、無口であること、他人と同席して食事をすることを好まないこと等の事実が認められないこともないが、右夢遊病者的行動は極めて一時的のことであり、その後においては別に異常がないこと、他の点の如きは多少その傾向があると云う程度のものであって、それが精神もしくは性格の異常によるものとは認められない)、被告人の刑事責任に影響を及ぼす程度の精神もしくは性格の異常があるものとは認められない。」と述べている。
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(2) だが、原判決の挙げる程度の事由で果たして、被告人の精神状態が健全であると断言できるのであろうか。精神異常は医学的知識のない人の表面的観察では、なかなか発見しにくいことは経験則上明らかなことである。原判決は何等、被告人の精神状況を明らかにすることのできるような証拠調べをしなかった。
精神鑑定の請求を却下したのみならず、兄=六造の取調べさえ認めようとはしなかったのである。兄=六造の言動は、被告人の本件犯行の動機である家出と金欲しさの一半(注:1)の原因になっているので(原判決もそう認めている)その証言が極めて重要になっているばかりか、被告人の行動を日常観察して得た貴重な証言を提供できる最善の一人であったのである。弁護人は被告人に精神異常の相当な疑いがあると信じている。
第一に、本件犯行それ自体が、異常なまでに大胆であり特異である。本件犯行は、被告人の、つまり犯人の「暴虐残忍性を余すところなく」示していると云っている。つまり、本件犯行それ自体からして、すでに被告人の精神的偏奇を感じざるを得ないのである。
第二に、被告人の日常生活にあらわれた性格と本件犯行は大きな矛盾を感じさせる。被告人は、西川証言や父親の証言からも明らかなとおり、また原判決も認めるように、極めて無口で顔をあげて人とまともに話ができないほど大人しい男であったのである。
第三に、本件犯行と被告人の本件犯行に至る動機は必ずしもぴったりと一致しない。原判決は、被告人の本件犯行の動機は金欲しさであると認めている。しかし、この点に関する被告人の自白は動揺しているので、必ずしも原判決のように断定できるものかどうか疑わしいのであるが一応それを認めるとしても問題は何故被告人が、犯罪を犯してまで、金が欲しかったのかその理由が重大なものとなるのである。
原判決によれば、父親に対する十三万円の借財を返還するために、金が欲しかったというのである。しかし、一般に父に対する借財で罪を犯そうとするほど、親子の間に、義務感が生じるものであろうか。
父は、被告人に対し金を返せなどと云ったことはないと述べている。また、金欲しさのもう一つの理由は、兄=六造といさかいがあり、そのため被告人は家出の決意をし、金が必要になったというのである。しかし、兄=六造とのいさかいの内容は、被告人の調書に簡単に述べられているのみで、残念ながら兄=六造の供述はない。前記のとおり、兄=六造の証人調べの請求は却下されたからである。
いずれにしろ被告人には、事件犯行のような大罪を犯さねばならないほどの、のっぴきならない動機はない。被告人が、父に対する借財や、兄との単なるいさかい程度のことで、本件犯行のような大罪を犯そうと決意したのだとすれば、そこにはやはり精神的な偏りを感じざるを得ないのである。
第四に、被告人には次のような異常性行が見られる。
極めて無口であること。学校を極端に嫌悪したこと。他人と一緒に食事することを非常に嫌ったこと。夢遊病者的行動のあったこと。
これらは、一応被告人に精神的欠陥のあることを疑わせるものである。また、被告人が小さい時から父母の手もとを離れて、他家に奉公に出て働いていたこと、家庭愛の不足や苦しい労働が、被告人の精神に何らかの影響を与えているに違いない。
以上、第一ないし第四の事実を総合すれば、被告人に何らかの精神的欠陥が存在しているのではないかと疑わせる相当な根拠が見出せるのである。
(3) それにも関わらず、原審裁判所は弁護人の精神鑑定の請求を二度とも却下した。そればかりでなく、すでに触れた、兄=六造のような重要な情状証人の取調べすら認めなかったのである。第八回公判期日、第十一回公判期日に弁護人は兄=六造も含めて幾人かの情状証人の取調べを請求しているが、ことごとく不必要として却下されているのである。しかし、これでは被告人の本件犯行における本当の動機、心理、精神状況は明らかにされない。これでは被告人の責任能力の程度を判断する上にも著しい冒険を犯さざるを得ない。量刑にあたっても、被告人の人格を全面的に把握できない。原審裁判所のこのような態度が後述のとおり、被告人に対し死刑と云う不当にして重大な量刑を導き出す原因になっているのである。我々弁護人は、原審裁判所のこのような拙速主義を全然理解できない。冒頭の項で述べたように、これでは原審裁判所は世間の一時興奮の渦の中に巻き込まれてしまったのであろうかと疑いたくなるのである。量刑をするにあたっての原審裁判所のこのような態度は憲法第三一条の法の適正手続保障の規定を破るものであり、刑事訴訟法第一条の「事案の真相を明に」すを一般的義務に違反するものであり、同法第三一七条の証拠裁判主義の趣旨に反するものである。
(続く)
注:1「一半(いっぱん)」二分した、一方の半分。なかば。「君にも責任の……はある」
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◯ぼうっと読んでいると駄目であるな。引用中の弁護団による意見は、彼らがそれを陳述しない旨を表明した「第六、量刑不当」(昭和四十八年十一月)であり、これは、『なぜ陳述しないと表明したのか』を考えながら読まねばならないのである。とは言え、裁判記録の活字ほど眠気を誘うものはないことは確かであるが。
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さて、狭山事件からは離れるが、日払い労働者である老生は貧乏である。貧困の極みに生きる者ではあるが何とかして労働時間以外の余暇を充実させたいという欲望は強いのである。貧乏人が余暇を充実させる手段の一つである「安い古本を買って読む」という行為を選択した老生は、これをライフワークとしており、これは限られた金銭面における問題解決及び読書欲をも満たすという結果を得、我が人生を昇華させつつある状況を招いてくれている。
ここで問題となるのは、その読書を行なう環境である。味気ない場所での読書は、その読書時の"充実した時間"の質を下げてしまい、そこには単に本を読了したという事実が残るのみである。日頃、この不満を解消する方法を考えていたのだが、その答えは先日に訪れた猫王国にあった。

ここである。ここで古本を読むという発想である。おお、よくぞこのような発想が浮かんだな俺、と自画自賛する。ようし、そうすると土曜日に高円寺の西部古書会館で古本を買い、日曜日はここに組み立て椅子を設置し、こっそり酒を飲みつつ古本を読み、飽きたら猫と語り合うという、これ以上の極楽はないと思われる時間を過ごせそうである。なお、狭山事件本は常に携帯しているため、そうすると猫に囲まれ酒を飲みながら狭山事件本を読むという、ああ、とても幸せな時を過ごせそうである。