(割と距離があるなぁ。歩きだとチトつらい)
(関口自転車店付近。被害者が、中学時代の下級生によって最後に目撃された地点)
( 「沢」交差点。大概の狭山事件関連本では、被害者の行方はここまでで終わるが「狭山事件・現地からの報告」によると、この近くにある天岑寺の名前が登場する。)
( 天岑寺。ここまでは順調だったが、本書記載の「関口自転車店の先にある二又の道」が見つからず、したがって「左の人通りの多い方」も見当が付かず、私は右往左往する。関口自転車店の先は「沢」交差点である。だが文章末尾にある「天岑寺の山門の前を通る道」となると、上記写真が山門であるから今私の立っている道が当該場所となろうか。「山門の前を通る山の中の道」との表記は昭和三十八年であり、現在とは全く様子が違うのは仕方なかろう。時代の流れに打ちひしがれ天岑寺向かって左側の道を選んで進んだ)
( この道は「沢」交差点から天岑寺の左側を沿うように通り、前方には二又に分かれる道が見える・・・ )
( 二又の道右側を選び、歩く。ここは人通りが少なく本書記載のイメージに近い。右側の鬱蒼と茂る雑木の林の裏側に行ってみるか。私の鼓動が早まった )
( 向かって左が天岑寺裏手となる。見づらいが一帯に墓跡群が静かに広がる。本日の目的であった、被害者の最終目撃場所の特定、及びその後の行動推察は達成出来ず、私は速やかに現場を立ち去った ) 家に帰ってから、もう一度確認しておきたく「狭山市史」民族編の古地図を見てみる。祈る思いでと言ったら大袈裟か
これだ。多少は当時の地形に近い図が載ってるかも。
鉛筆で指し示した箇所が「二又になっている道を、左の人通りの多い方へは行かず、天岑寺の山門の前を通る山の中の道を進む」に該当するのではなかろうか。やっとここに辿り着いて、本日の行動は無駄ではなく前進であったと自身を納得させ、焼酎を飲んだ。この先の被害者の行動を推察すれば、やがて何がしらの成果が得られるかも知れない。しかし疲れたのう、本日は。