アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 358

【公判調書1320丁〜(7/21)】供述調書  石川一雄

右の者に対する恐喝未遂被疑事件につき、昭和三十八年六月二日狭山警察署において、本職は、あらかじめ被疑者に対し自己の意志に反して供述する必要がない旨を告げて取調べたところ、任意次のとおり供述した。

(一)私は前回お調べの際、本年五月一日は朝午前七時十分頃家を歩きで出て、現在私が着ているカーキ色のジャンバー、ジーパン、ゴムの長靴で入間川駅へ行って電車に乗ったのは、大体午前七時三十分頃でした。この事で未だ調書に書いて貰わなかったのは、私がその朝入間川の駅前に行った時、踏切り方から入間川の市内に向かって、知合の狭山市堀兼の人で西武鉄道関係の運送会社へ勤めている高橋良平(二十二才位)が茶ぽいジャンバーを着て単車に乗って来るのを見ましたが、その時私は今度警察で調べられた上下ツナギの作業衣を盗んだまま返してないので駅前の桐の木の影に隠れてしまい、挨拶は致しませんし先方も私には気付かなかったと思います。その後の事は前回話した通りです。私はパチンコは好きな方で所沢の東莫と言うパチンコ屋へは毎月四、五回行っております。五月中、東莫に行ったのは一日と中旬頃一回だけと覚えております。パチンコで儲かった時は煙草で持ってくる事もあるし現金にする事もあります。五月一日は二十二番の機械で二百円の元手で大体三百拾個になった時、その玉を玉売場へ持って行ってガムに取り替えて現金にしたのです。その時ガムと引き替えに現金四百円を受け取った対手(注:1)は年齢三十才過ぎ位の女の人で日本人でした。玉を二百五十個出すとガムを四ッ入りを五ヶをよこし、それを景品買に出すと現金四百円をくれるのです。従って私は五月一日は一日中入間川の市内には居なかったのです。

(二)次に私は前の取調べの時、兄六造さんの足袋を五月六日から二十二日頃まで近所の石川国治さんの家の鳶仕事に頼まれて行った際、時たま借りて履いていたが、兄さんの足袋は九文七分で、親指が痛くて指を丸めて履いたがそれでも親指は痛かったのです。私が六造兄さんの足袋を履いたのは五月七、八日頃、国治さんの処から家へ帰って自分の家のコンクリ打ちをした時と五月十六日建前の日です。

(三)私が五月一日、二日、三日頃寝ていた部屋についてお尋ねですから申上げます。私は四月二十五日頃から、五月二十三日警察へ連れて来られるまで、お勝手寄りの四畳半に何時も寝ておりました。その部屋は弟、清が寝ますし時隅(注:2)母ちゃんも寝ます。私は何時も夜は玄関から入りますが、六造兄さんはお勝手から入る事があります。

(四)私の家には犬二匹居て夜他所の人が来ると吠えます。只今、私が寝ている部屋や犬小屋の状況を書きましたから提出します。

此の時本職被疑者提出の略図一枚を本調書の末尾に添付した。

(五)私の持っている衣類についてお尋ねですが私は競輪やパチンコに行くのに良い物はいりませんから、今着ているヂャンパー・一枚、今着ているヂーパン・一本、白Yシャツ・四枚、クリーム色純毛長ズボン・一本、鼠色純毛長ズボン・一本、下着類シャツ類・十枚、レインコート白色・一枚等であります。

(六)次に、私が石田豚屋に働いていたのは昨年の秋頃から本年二月二十八日までで、その後正式に行った事は有りませんが石田さんの処をやめて親に怒られるので家にも帰れず昼間河原や山に行って遊び、夜こっそり豚屋の番小屋へ来て弟義男に話して三晩ばかり泊めて貰いました。その頃はやめて間もない頃でしたから石田豚屋の犬は全然吠えませんでした。石田さんのところは犬好きで、現在新築した家の方に、七、八匹戸門・・・(注:3)の家の東側にも一匹番犬が居ります。戸門の家の東側の豚小屋に居る犬は、夜等戸門さんの家の人でも吠えますし、他所の人が豚小屋へ行けば大変な吠え方をします。しかし私が石田さんの家にいる時、人に食いついた事は有りません。

(七)次に、五月一日殺された堀兼の中田○○(被害者名)さんや、そのお父さんを知っているかとのお尋ねですが、私は近所に半年近く住んでおりましたが○○(被害者名)さんと言う娘もお父さんも、一回も会った事は有りませんから知りません。事件があってからテレビで見て始めて知った様な次第です。私が石田豚屋に居た頃の正月十五日、石田一義さんから空気銃を借りて猟に出て、その近所を廻りましたから中田さんの家丈は知っております。又昨年の十一月一回前の松本織物工場の若衆と一緒に火の番で堀兼部落を二回ほど廻りましたからあの辺は良く知っております。

(八)私は今まで話して有りませんが、無免許でどんな自動車でも運転出来ますが、今まで運転手になる試験には一回も行っておりません。それと言うのは文字が書けないからです。私が車の運転を覚えたのは昭和三十六年秋頃から三十七年の六月頃迄豊岡町の土木水道工事をしている西川組に働いていた時です。西川組をやめてからしばらく経て堀兼の石田豚屋へ行ってからも一義さんや義男さんが留守の時、私が運転をしておりました。

(九)私は幾度聞かれても中田さんの家へ脅し手紙等書いた覚えも無いし、それを持って行った事も有りません。石川一雄

右のとおり録取して読み聞かせたところ誤りのないことを申立て署名指印した。於狭山警察署助勤  刑事部捜査第一課  司法警察員 警部  清水利一

(注:1)対手=たいしゅ。相手、相方。

(注:2)時隅・・・意味不明な上、検索出来ず。

(注:3)調書の印字が不鮮明である。“男”あるいは“勇”という文字の可能性あり。

狭山の黒い闇に触れる 357

引用中の、供述調書の順序と、供述調書目録の順序が違っていた。目録が誤りであろう。公判調書上は⑥⑦⑧の順であるが目録では⑦⑥⑧となっている。⑥⑦⑧で話を進めよう。頭が割れそうである。しかもこの後、まさかの落丁という問題にぶつかるのであるが・・・。

【公判調書1319丁〜(6/21)】

供述調書    石川一雄

右の者は、昭和三十八年六月一日狭山警察署において、本職に対し、任意次のとおり供述した。

(一)私は只今申上げた石川本人であります。

(二)狭山市堀兼の石田豚屋に勤めている時、同僚の東島明と石田義男の二人が、狭山市入間小学校校庭で狭山市北入曽の関口とかいう十七〜十八才くらいの男に怪我をさせたり、後で判ったのですがその暴行の際、時計(腕時計)を東島が取った様な事件がありましたので申上げます。

(三)昨年の十一月末頃の事ではないかと思います。東島が所沢市内で靴を買ったのが足に合わないと言う事で取り替えに行くから所沢に行かないかと言われ、夕食を終わり西武線入曽駅から電車に乗り靴屋に行き、遊ばず又電車で午後九時頃入曽駅に着いたのでありますが、所沢駅で電車を待っている時、ホームの所で関口とかいう北入曽の男が、俺は町の愚連隊を知っている、とか若い女の子三人に話しているのを東島と私が聞いておりまして、この野朗はトッポイ奴だと思っておりましたが東島の方が頭に来たと見えて、入曽駅に下車すると東島はその男を連れて「学校へ来い」と言いながら自転車をころがして関口が一緒に行くのを、声の聞こえるくらい離れて先に歩いて行きました。小学校の校庭の南側隅の大きな立木が三、四本くらいある付近まで行くと東島は関口に対して両手で殴り始めたようでしたが、その時石田義男が自動車を運転して近くの道を通るのを車の音で判ったので、私は車の後を追って行き駅前で義男と会ったので、私は「東島が学校の庭で喧嘩をしている」と言うと、義男は自動車から下車してサンダルを履いた姿で「どれどれ」と言いながら私と二人で急いで小学校まで引返して行きますと、関口は相当殴られたと見えて校庭に頭を下に立っており、それでも盛んに東島は殴ったり蹴ったりしておりました。義男もその場所に行くと同時に両手を使って殴っておりましたので、俺はあまり可哀想であったので仲裁に入りました。関口は東島と義男に殴られたり蹴飛ばされたりして鼻血を出したようで相当痛めつけられました。東島は白色セーター様の物を着ておりました。私は黒色のジャンバー姿でありました。殴ったり蹴ったりした時間は二〜三十分くらいで、その間被害者と殴った二人が話しをしていたこともあります。喧嘩が終わり私と東島は義男と別れ駅からタクシーで帰ろうとしましたが、午後十時を過ぎてしまったらしく駐車していないので二人で歩って堀兼の石田さん家へ帰りました。義男の方は別に友達がいたので別れたのです。

右のとおり録取して読み聞かせた処誤りのない旨を申立て署名指印した。

狭山警察署 司法警察員 警部  諏訪部正司

*東島が関口に暴行を行った旧入間小学校は現在廃校になっており、校舎も取り壊され寂れた空き地となっている。唯一、その長い歴史を見つめてきたであろう大きな欅の木が一本、力強く存在感を放っている。

狭山の黒い闇に触れる 355

【公判調書1312丁〜(4/21)】

供述調書(甲)石川一雄    右の者に対する恐喝被疑事件につき、昭和三十八年五月二十七日狭山警察署において、本職は、あらかじめ被疑者に対し自己の意思に反して供述をする必要がない旨を告げて取り調べたところ、任意次のとおり供述した。

(一)私は最初お調べの際、悪い事をして警察署で調べられたのは、

狭山市柏原の百姓屋で人が飼っていた鳩六羽を盗んで狭山警察の人に手を縛られて連れて来られた事。               ②次は、それから間もなく当時私が雇われていた狭山市入曽の農業、宮岡長蔵さん方の物置から小麦三俵を長蔵さんの家のリヤカーに乗せて盗み出し、入曽の茶畑に隠して置いて後で売ろうとしましたが、後で長さんに見つけられ長蔵さんから警察へ話され、狭山警察へ捕まってしまい勘弁してもらいました。

丈と申しましたが今月まで今一つ事件を話してないのがありますからお話し致します。それはやはり長蔵さんの家に住み込みで働いている頃の事です。私は物が欲しくなって知合の狭山市入曽の町田金ちゃん、所沢市の田代三郎さん、吉川さんと相談して、入間川の県立の高等学校へ泥棒に行き、私はホー歯(注:1)の下駄一足、町田金ちゃん、田代三郎さん、吉川かずおさん等は皆学校へ通っている生徒の靴一足づつ盗み、各自それを履いてるうちその事が警察に判り、その時も全部捕まってしまいました。今よく考えてみるとその時は私が十四才の事でしたから昭和二十九年から三十年頃の事でした。

私は此の前、調べの際、学校泥棒をした事を話せと申されましたが私は夜学の学校へ行った泥棒の事は夜学校の泥棒の事と言われなかったから話さなかったのです。

(二)私は昨日、東鳩その他勤め先や出入先では絶対書いた紙等一枚も無いと申しました。それもうそですから訂正して下さい。只今警察の方から、私が昭和三十三年から同三十六年まで勤めていた東鳩という製菓会社にいた頃の早退届を五枚見せて貰いましたがそれはいずれも私が会社で書いて提出したものです。私は会社へなど一枚もそんな物は書かないなどと偽りを言ったのは別に理由はありませんが有るものも無いと言う性分ですから言ったまでです。私の性分は有る事でもひと口無いと言えば何処迄も無いと言う性分です。従って私は白いものでも黒とひと口言えば絶対黒と言い通してしまいます。

(三)五月一日の晩、中田栄作さんの家へ脅かし手紙を持って行って翌晩さのやの前へ金二十万円届けろ、届ければ子供は無事帰すなどと書いた覚えは有りません。私は書かないものは何処まで行っても書かないと言う丈です。

(四)次に、五月六日から近所の水村国さんの処へ鳶仕事に行っていた頃の事で、多分六、七日頃の事です。自分の家だったか国さんの家だか忘れましたが父親富蔵から、あの事件( ○○さん〈被害者名〉殺しの事と思う)は一雄、お前がやったんだろう。お前がやったのだら俺ははづかしいから汽車の線路へ飛込んで死んでしまわなければならない、と申しますので私はその時親父に、そんな事俺は知らない。そのうち誰か捕まるだんべい、と言って親父を安心させました。

(五)次に、鳶職仕事をするには履物は何を履くかとのお尋ねですからお話し致します。私は昭和三十六年九月頃から昨年の夏頃まで豊岡町西川組の西川さんの処へ通勤で人夫として、近所の石田登利造さんの世話で働いた事があり、その時は常に鳶職の履く地下足袋を履いており、その足袋は何時も所沢市で五百円で買って来て履いておりました。その足袋は昨年十月頃から堀兼の石田豚屋へ住み込みで働くようになってからは履かず、石田さんの処へ置きっ放しにしてあると思います。その様な訳で私が自宅の兄六造と働くようになってからはその足袋が無く何時もゴム長靴を履いておりました。私の足は十文半、兄六造は九文七分位で、私が時偶兄ちゃんの足袋を履くと両方の親指が丸くなってとても痛くて長い時間は履いておれません。それで六造兄ちゃんが新しい足袋を買ってくれると言っておりましたが今迄買って貰いません。六造兄ちゃんは二、三足鳶職の足袋を持っております。私が元履いていた地下足袋の略図を書きましたから提出します。

*此の時本職供述人が自書作成した地下足袋の略図一枚を本調書の末尾に添付した。

此の辺で休んで又お話し致します。被疑者  石川一雄

右のとおり録取して読み聞かせたところ誤りのないことを申立て署名指印した。狭山警察署助勤 刑事部捜査第一課  司法警察員  清水利一

○文中(注:1)は原文通り引用した。ホー歯の下駄とは何だろうか。

しかしこの「ホー歯の下駄」や地下足袋の略図などはもはや問題ではない。今回も引用した、公判調書における石川被告人の、石川被告人目線による詳細な供述こそが重要な意味を持つ。

狭山の黒い闇に触れる 354

【公判調書1310丁〜(3/21)】

供述調書(甲)石川一雄   右の者に対する恐喝被疑事件につき、昭和三十八年五月二十六日狭山警察署において、本職は、あらかじめ被疑者に対し自己の意思に反して供述をする必要がない旨を告げて取調べたところ、任意次のとおり供述した。

(一)本年五月四日私の家から東方約三百米位離れている畑道で堀兼の中田○○(被害者名)さんの死体が発見された日、私はそれを見物に行きましたからその事についてお話し致します。

午前八時頃、私は隣家の水村正一さんから今日は入間川へ行って魚釣りをやろうと誘われましたので私も魚釣りは好きですから一緒に行きました。二人で大体昼過ぎ頃迄魚釣りをし、私は四匹位、水村正一さんも二、三匹位しか釣りませんでした。それで家へ帰ろうとして竿を借りた入間川の石川富さん(運転手・三十五才位)の家へ寄って竿を返し、自宅へ戻ろうとして坂を上り友達の樋口明さんの家の前まで来たら、樋口さんのお母さんが入曽の山の方で死体が見つかった、という話をするので行ってみようと言うと、明さんが入曽ではない、此の前倉さんが首っこ(首吊)をしたところだと言うので、私は水村正一さん、樋口明さん、それに明さんのところに居た石川太平さん達と共に自転車で東里の死体の埋めてある場所へ行ってみましたら、大勢巡査がいるほか消防団や野次馬がいっぱいでした。私は樋口明や石川太平らと共に、殺された人が埋められている直ぐ手前のジャガイモ畑の中まで行って死体を掘り出すのを良く見ておりました。掘り出す私服の刑事や消防団の人がスコップを近所へ借りに行っているうちに、一旦三人で帰宅してジャンバーを引っかけて現場へ来ました。私が一度戻ってそのその所へ行ってよく見ておりましたが、死体が出て担架に乗せて何処かへ持って行ってしまいましたから顔形等は見えませんでした。私はその時報道陣の人から写真を撮られました。その日はそれから家へ帰って何もせず夕方まで遊んでしまいました。夜は何処にもにも行きません。後で私がその時テレビに映っていたという事を近所の人から聞きました。

(二)次に五月五日付

東京板橋の姉さん、一枝が三日にお客に来て病気になりそれ以来ずっと泊まっていて、一枝姉さんの夫、高橋としおさんが様子見に来たので何処へも出ず話し合っていたと思います。もし出たとしても小学校へキャッチボールをやりに行ったくらいで、入間川の市外には出ておりません。

(三)その後五月六日からずっと近所の水村国さんの処のコンクリー仕事や家の建前に行っていて、五月二十二日迄かかったと思います。その間、十三日 、十四日、十五日の三日間、稲荷山へ近い金子由治さんの鳶仕事をやりました。そのほか二十日頃、二日間同町内の常夫さんという家の風呂場造りに行っております。申し落としましたが、その間雨の降った日は休んだし五月十九日の日曜日は半日で仕事を仕舞い友達の水村正一さんと狭山湖の野球場へ野球見物に行きました。従ってその間西武園になど行った覚えはありません。

(四)次に私のアリバイについて兄の六造から五月一日の日は近所の水村しげさくの処へ鳶仕事に行っていた事にしておこうという話しをされた事について正直にお話し致します。それは五月三日か四日の頃の夜のことでした。初め、父ちゃんが堀兼の女学生殺しの事で世間がうるさいから、警察が来たら兄ちゃんと一緒に近所の水村しげさんの処へ行って仕事をしていた事にしておけと言われたので、私もその日仕事をしていないのでついその気になり、そう言おうと思いました。それから二、三日過ぎた五月六、七日頃、家の中で、おい一雄、五月一日はお前は俺と一緒に近所の水村しげさんの処で働いた事にしておくからなと申しますので私はその時、あんちゃんそれではそう言っておいてくれとお願いしたのです。そんな訳で父ちゃんと兄ちゃんが何時何処でその話しをしたか私には判りませんが、二人が話し合ってくれた事は間違いないと思います。石川一雄

右のとおり録取して読み聞かせたところ誤りのないことを申立て署名指印した。

狭山警察署刑事部捜査第一課  司法警察員  清水利一

*事件直後の、石川一雄被告人が犯行を否認していた段階での証言であるが、その内容を見たとき、質の高い詳細な述懐ぶりは、まさに経験した当人でなければ語れぬ視点に貫かれている事に気付かされる。第一審での、作文の棒読みのような証言を見ればそれは明らかであるが、となると順序が逆になるが、いずれは第一審公判調書にも触れなくてはなるまい。石川被告人の第一審の証言と第二審での証言とを対比させ、その文面から、被告人自身の正直な供述か、あるいは何かの密約に基づいた、例えば清水利一による十年の服役で全て許すといった甘言を信じ、それを保持するために押し通した供述か、等を分析し考察しなければならないだろう。もし「虚偽の証言・事実の証言。その判別方法」などといった書籍か有れば老生は即買いするであろう。

本文と関連する写真である。

写真は被害者の遺体が発見された日の日付けである。この写真のどこかに野次馬として参上した石川県被告人の姿が写っていれば、少なくとも今回引用した供述の裏付けは取れるのだが・・・。

狭山の黒い闇に触れる 353

【公判調書1308丁〜(2/21)】供述調書(甲)石川一雄   右の者に対する暴行、窃盗、恐喝未遂被疑事件につき、昭和三十八年五月二十五日、狭山警察署において、本職はあらかじめ被疑者に対し自己の意思に反して供述をする必要がない旨を告げて取り調べたところ、任意次のとおり供述した。                                    

(一)私は昨日お調べの時五月一日の日は朝七時すぎ頃家を出て入間川駅へ行き西武園へ行って午後十時頃迄の間約二時間位煙草を吸って松の切り株に腰を降ろして休みましたからその時の状況を申上げます。その場所は西武園の駅を降りて東の方へ約二百米離れた山の中です。その山は雑木林の中に松が所々生えており、松の高さは私の身長よりやや高い位でした。私が休んだ処は松の木が四、五本位生えている手前で、大きな松の木の切り株で、大きな火鉢位の丸さ、切り口が黒くなって幾らか腐っていたと思います。そこに腰を降ろして休んだのは別に何の意味も無く、パチンコ屋の開店になるのを時間待ちしただけです。そこで煙草(いこい)を二本位喫い、長靴の底に敷いてあった新聞紙三、四枚を取出しそれ松の木(注:1)の方へ放り出して捨てたのです。その新聞は古い新聞だったと思います。勿論私の家を出る時既に入っていたものです。只今その西武園の林で私が休んだ場所の略図を書きましたから提出致します。

『この時本職被疑者が自書提出した略図一枚を本調書の末尾に添付した』

(二)次に、昨日も聞かれました中田さんの家へ手紙を書いて持って行ったのは私では有りません。私は字はよく書けないし読めませんからそんな事はできません。石川一雄

右のとおり録取して読み聞かせたところ誤りのないことを申立って署名指印した。狭山警察署捜査第一課  司法警察員 警部    清水利一

*文中の(注:1)は「〜それ松の木〜」は原文のとおり引用した。このような日本語が公判調書には点在しているが、裁判所の速記官及びその反訳者はそれらをどう捉えているか知りたいものだ。

 

狭山の黒い闇に触れる 352

【公判調書1306丁〜(1/21)】被告人=石川一雄に対する取調状況および同人の供述経過を明らかにするため、証拠として二十一通の供述調書が請求された。目録記載の順序で引用する。 供述調書(甲)石川一雄   

右の者に対する暴行、強姦、恐喝未遂被疑事件につき、昭和三十八年五月二十四日狭山警察署において、本職はあらかじめ被疑者に対し自己の意思に反して供述をする必要がない旨を告げて取り調べたところ、任意次のとおり供述した。
(一)私に対し只今本年五月一日の行動についてお尋ねで有りますから正直にお話し致します。この事については昨日から何回も聞かれましたが何分にもまず近所の水村志げさんの家へ鳶職で兄の六造と行っていたと言っておりましたがそれは皆うそです。私が何故その様なうそを申上げたかと言いますと堀兼の中田○○(被害者名)さんと言う娘が入間川の高校へ来ていてその帰りに誰かに殺されて、私方より約三百米位はなれた東方の農道に埋められてしまったと言う事件が有り、私が丁度その日遊びに出て夜七時半頃雨にぬれて帰って来たのを父親が知っていて心配し、お前疑われては大変だから近所の水村志げさんの家へ兄の六造と鳶仕事に行っていたとアリバイを作っておけと言われたので私もその気になり、今日まで警察の刑事が来て聞かれてもその様にお話ししておりました。この事は私が直接志げさんに頼みは致しませんが親父が水村志げさんの処へ行ってうまくアリバイを作っておいてくれたかも知れません。
(二)私はその日丁度金を持っておりましたので、つい仕事をするのが嫌になりパチンコでもしようと思い、朝食を食べて家を出、午前七時十分入間川駅を出発して所沢を通り越して西武園駅で下車し西武園の山の中へ行って長靴の中へ敷いて行った新聞紙を出して腰を降ろし煙草を吸って遊んでおりました。そこに約二時間位居てまた西武園駅へ行って所沢まで切符を買い所沢で下車し所沢駅から四百米位行った大通りの右側にある東莫と言う大きなパチンコ屋へ行き二十二番の機械で二百円、玉を買ったら五時頃までに四百五十円現金で稼ぎました。それから残金で五十八番で十分位やりましたがすぐ取られて仕舞いました。
(三)それで私は家に帰ろうと思って所沢駅へ行き入間川駅までまで切符を買い午後七時半頃入間川の駅に到着帰宅したのです。その頃雨が降っておりました。その日私の仕度はカーキ色のジャンバー(木綿)、ジーパン、ゴム長靴でした。私が家へ帰って来たら母さんに何処へ行って来たと聞かれましたのでパチンコをやりに行って来たと言い、今日は四百五十円儲かったと話しましたらそれは良かったと母さんが喜んでくれました。 それで雨に濡れたジャンバーやジーパンを脱ぎ長袖シャツと古っぽい長ズボンに着替え母さんが作ってくれた夕食(御飯にねぎの味噌汁、たくあんの油いため)を食べ炬燵の有る四畳半の間で皆んながテレビを見て居るので午後十時頃迄そこにおりましたら丁度その頃兄の六造が入曽の歯医者へ行って来たと言ってオートバイでびしょ濡れになって帰って来ました。それで間もなく私はお勝手の横の四畳半に行って一人で寝てしまいました。
(四)その日所沢へ行った帰りに誰か知り合いの人に行き会ったかとのお尋ねですが私の近所の人や懇意な人には行き合いませんでした。私が東莫パチンコ店に居る時、パチンコの店中を歩いている左額から頬にかけて傷のある三十五、六才、五尺二寸位土方風の人で赤シャツを着た人がおりましたから調べて見れば判ると思います。又、玉売りをしていた女は顔の丸いポチャポチャした良い娘でした。
(五)次に五月二日の事も正直に言います。その日午前七時半頃起きて朝食を食べ、昼頃までかかって玄関前の犬小屋を作り、昼を食べてから私方の前の川本ヤスオさん二十四才と入間川の映画館へ映画を見に行き、こまどり姉妹の未練心という映画を見て私は涙を流して泣いてしまいました。それでその日の夕方午後六時頃二人で何処へも立ち寄らず帰宅したのです。帰る頃はかなり雨が降っておりました。その晩は何処へも出ずにテレビを見て午後十時半頃やはりお勝手横の自分の部屋へ行って寝てしまいました。
被疑者  石川一雄
右のとおり録取して読み聞かせたところ誤りのない旨を申し立て署名指印した。
狭山警察署刑事部捜査第一課 司法警察員 警部  清水利一

狭山の黒い闇に触れる 351

【公判調書1301丁〜】ここには石川一雄被告人による「釈明補充書」が載っており、これは簡単に言えば、本控訴事件につき、昭和四十三年九月二十四日、弁護人より書面でなされた求釈明等の申立に、二点を補充するとし、次頁に供述調書二通が記載されている。しかしこれは、さほど重要視せずとも良かろうと判断、次へ進む。                    

【公判調書1302丁〜】「事実取調請求書」これも石川一雄被告人による請求である。『強姦殺人等右控訴事件につき左記に証拠調を請求する。昭和四十三年十月一日 東京高等検察庁 検事 平岡俊将      東京高等裁判所第四刑事部   殿                                                                  

                                             記                                      一、《取調請求の証拠》       別紙目録記載の被告人石川一雄司法警察員ならびに検察官に対する供述調書二十一通。  二、《立証趣旨》     被告人石川一雄に対する取調状況および同人の供述経過を明らかにするため。』

*供述調書二十一通の調書目録がこれだ【1305丁】

次回から順に引用して行こう。さて、もうじき待ちに待った秋が訪れ、読書には最適な季節に入る。鈴虫やマツ虫の鳴き声を聞きながら、深夜の丑三つ時、ロウソクの灯りを頼りに公判調書を読む行為は、老生にとって何事にも変えられぬ喜びを生む。読書のお供に芋焼酎お湯割りも忘れない。