アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 1282

○今回より引用する調書3972丁から3978丁はその原本に印刷された印字が"かすれた"状態であり不鮮明である。そこで老生としては書かれている文脈に注意を払いながらそれらの箇所を分析および推測し文章として復活させこの場へ記載しようと思う。したがって3972丁から3978丁までの内容は若干不正確なものになる可能性がある。

狭山事件公判調書第二審3972丁〜】

                弁論要旨(昭和四十八年十二月更新弁論)

                                                     昭和四十八年十二月八日

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                                   狭山事件の見方

                                                            弁護人=佐々木哲蔵

(前回より続く)

    ここで一言感傷的なことを申上げることを許していただきたいのですが、私はこの八海事件で最高裁自身が全員一致で原判決の死刑から無罪への逆転判決を言い渡したあの瞬間の感激を忘れることが出来ませんが、あの判決直後最高裁の裁判官に御礼のあいさつに行った時「吉岡はどう思っているだろうか」と尋ねられた。これは私も同感でしたので、判決後、間(あいだ)なしに吉岡を広島の刑務所に訪ねた。その際吉岡は、「最高裁判決の通りです。私一人が真犯人でした。誠に申し訳ありません」と深々と頭を下げて、詫びた。このときやっぱりそうだったんだ。阿藤君の名は、本当に危なかったんだなと思った瞬間、そのときは感激ではなくて、ぞっとしました。裁判の恐ろしさを身にしみて○○(注:1)たからでした。

   このような事情でしたが、八海事件から学んだことを私なりに参考にしながら狭山事件のことを述べてみたいと思います。

   先ず第一に、これは本件の第一審判決にも、その考え方が表れていると思いますが、被告人の自白の中におかしいこと、特に客観的事実に合わないものがあることが証明されていても、その自白が全体として大筋で犯罪事実を認めるという考え方であります。これをいわゆる大筋論と申しましょう。八海事件の場合「阿藤君が、犯行現場でロープに血を塗りつけた」という吉岡供述がある。我々も一見して、それは血であると思っていた。ところが鑑定の結果それは血でなくて鉱物油ということがわかった。これは自白の真実性を否定するに足る有力な反証である筈である。しかしながら八海事件有罪判決はこれを一時の思い違いという、それだけの理由で、その反証を排斥したのであります。私がよく引く例ですが、果物のりんごの場合は、腐った部分はそれだけ切りとれば残りが食べられる。しかし、まんじゅうの切り端から毒が顕出されたら、その残りのまんじゅうは全部捨てなければならない。その人の供述の信憑性が争われている場合に、その供述の一部が客観的事実に合わないことが証明された以上は、その証言は特別の事情なき限り、これを捨てなければならない。つまりりんごの扱いではなく、毒まんじゅうの扱いをしなければならない。これが裁判上の採証の法則であると思います。八海事件有罪判決は、右のような採証法則違反を犯すことによって恐るべき誤判を犯したのであります。

   これと丁度同じような反証が、実は御当審における鑑定の結果現われているのであります。

(続く)

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注:1  推測不可能な文字の画像。

ボールペンのペン先で指し示している所(スペース的に二文字と思われる)が注:1の部分である。ここに書かれている文字はなんだろうと、目を細め凝視(こうすることにより少しだけ対象の文字像を視覚的に補完出来る場合がある)したり、あるいは様々な角度からこれを眺め、想像しうる文字を検討してみたが結論としては「対象の文字は鑑定不可」であった・・・。