ああ涼しい。やっと過酷な夏が過ぎ、読書と食欲の秋にふさわしい季節になった。さて、袴田事件も完全無罪となり、これは冤罪の可能性が囁かれる狭山事件にとっても良風としてその関係者らの間を吹き抜けるであろう。
今年は老生の好物である秋刀魚が豊漁らしく、一尾がいくらで売られるか気になるところだが、秋刀魚の塩焼きと大根おろし、これを焼酎で喉奥に流しつつ、公判調書第二審を読み込んで行こうと思う。
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『原文を読みやすくするために、句読点をつけたり、漢字にルビをふったり、中見出しを入れたり、漢字を仮名書きにしたり、行をかえたり、該当する図面や写真を添付した箇所があるが、中身は正確である』
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(中田家へ届けられた脅迫状の文面は横書きであった)
【公判調書3477丁〜】
「筆跡などに関する新しい五つの鑑定書の立証趣旨について」
弁護人:山下益郎
(二)
3 「綾村勝次鑑定書について」
(前回より続く)
ホ、横書きの問題について。
高村・関根・吉田および長野鑑定はこの問題に全く触れていません。本鑑定書は「横書きに習熟すると、一文字を書く際に、文字の旁の方に力が抜けていく。これは次の文字を書くための自然的な心理的準備であり、次の文字への移行を表しているものである。したがって、脅迫状の文字にはすべて終筆において力が抜けきっているが、上申書には筆勢がなく、ようやく知っている字を書いたか、または何かを見て書いたごとく、一字一字、力を入れて書き上げている。終筆にも力が入っているので自然に行が右下に傾いている」と述べ、上申書と脅迫文の決定的な相違点を明らかにしたのであります。横書きについて、これほど深く分析したのは本鑑定書において最初であります。ただ、終筆の点につき、関根・吉田・長野および高村各鑑定も、脅迫状には筆勢が著しいが、上申書は筆勢渋滞している点を指摘しており注目すべきであります。
ヘ、当て字について。
本鑑定も、また先の大野、磨野鑑定とその説くところは全く同一であります。すでに三鑑定書を引用しましたが、関根鑑定らはいずれも、脅迫文の当て字、誤字は筆者が知らないまま正しいと思って表記したというのでありますが、仮名で「で」と書くことが自然であり容易であるのに、何故「出」を当てたかについて右三鑑定は全く分析をしません。それは分析をしなかったのではなく分析不可能でありました。つまり国語学上の教育実践、学問的成果のうえに立たねば、この疑問を解明することは出来ないのであります。脅迫文の当て字が「無意識のうちに書かれた」ということは絶対になく、また「誤字を書きながら正しい文字と思いこれに気付かない」ことは絶対に起こり得ようはずがないのであります。三鑑定はこれらの点の分析を欠落したために、脅迫文は教育程度の低い者がこれを書いたと断定し、捜査当局の主張にそう結論を出したのであります。本・綾村鑑定書は誠に筆跡鑑定に値するものであり、これまでの三鑑定が全面的に信用のおけぬ、鑑定に値しないことを明らかにしたのであります。
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石川一雄の当時の表記能力では、到底脅迫文を起草し、かつ筆写することは絶対に不可能なことが、新しい三つの筆跡に関する鑑定書によって明らかにされています。
ところで、関根・吉田鑑定書も一般的な論点についてはこれを採用すべきものがないでもありません。こう記載されています。つまり「筆跡は、各筆者によって巧拙の度に自ら限度があるもので、現在筆者が書き得る限度以上の能筆を書くことは不可能であるが、現在書き得る限度以下の文字を書くことは容易である。したがって筆者が自分の筆跡を隠そうと努力しても、その文字は筆者の書き得る限度以下の文字を書くことは出来ても、それより巧妙な文字を書くことは不可能である」と。これを、本件に当てはめて考えてみた場合、上申書の筆者が自己の書き得る限度以上の能筆である脅迫文を書くことは不可能であるというのと同じことを言ったものでありましょう。
人間がすべて社会的人間であるからには、彼の労働生活、家庭環境、学歴等々の、いわゆる自己を取り巻く社会的制約から超越して自己を語ることは出来ないのであります。それは文字生活にも妥当する考えであります。
狭山事件の真犯人は脅迫文に稚拙さを工作することによって、自己の出身を隠そうとしました。しかしその努力をすればするほど、真犯人(筆者)が知能の低い、学歴のない人間ではなく、かなり高度の文字能力を持つ人間であることを自ら暴露せざるを得なかったのであります。
(続く)