【公判調書3657丁〜】
「第六十六回公判調書」
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『筆跡鑑定に対する検察官意見』(前回より続く)
次に磨野鑑定には「脅迫状の筆勢は速書きできるものであり、自己の意思表現を内容として文字を速書きし、然(しか)も訂正箇所が殆どないことからも筆写能力の高さが察せられる」という判断がある。この記載をみると一見かなり内容的な意味合いが含まれているかの如き印象を与えるが、その根拠としてあげている上申書と対比しての差異点をみればあくまで形式的な問題をこのように表現しているものと考えられる。然(しか)してその差異は綾村の場合と大同小異で
イ 横書きに慣れているか否か
ロ 終筆がはねているか否か
ハ 段落、句読点の問題、宛字の有無
の問題が上げられている。段落、句読点の問題は元来その文が何を目的とする文であるかに左右されていることが多い。脅迫状と上申書のような日記文ではその文書の体裁を異にしていることは明らかで脅迫状が磨野鑑定の云うように段落のくぎりを考え、要件となる部分について文字を大きくし、又、繰り返しの手法を用いることは当然でそれは恰(あたか)も証拠として提出した関源三宛被告人の多数の手紙が通信文としての性質上、段落について或いは要件となる部分について注意を受けるような記載方法を講じていることをみれば自ら解明することで、本鑑定人の云う如くにはしかく(注:1)簡単に断定出来ない。
又、宛字の問題も脅迫状には「で」に「出」を、「き」に「気」を書いているが、上申書には全て平仮名書きになっている点を取り上げて特異点としているが、これは要するに上申書にはたまたまその筆速になかっただけのことである。こういう考え方は高村鑑定書にも触れているところがあるが、遠藤鑑定書も指摘するところである。
例を挙げれば、綾村鑑定書中三丁に「概観的"見"討」(=検討)、四丁に「刑"罸"」(=刑罰)という字が出てくる。最も文字を大切にし、その造詣が深い筈の鑑定人綾村氏が何時もそのような字を書くとは思われない。之(これ)もたまたま出たに過ぎない。同様、脅迫状の「出」も同じ脅迫状の中に「で」の字であることから「で」の字を知らないことはないわけで、上申書にたまたま出なかっただけのことで、之(これ)を比べて特別の意味付けをする理由はない。
次に大野鑑定について、先(ま)ず直ちに気付くことは、上申書については誤字とその項を設けて検討しているが、脅迫状には一体誤字があるのかないのか、上申書と対比して検討が為されたのか否か全然記載がなく、ただ宛字として全然別の観点からの説明が為されているだけである。
例えば上申書で「時」の字が「晴」の字となっている点を取り上げているが、脅迫状も同様「時」の字が「晴」の字の字体の省略体として出ているのが三箇所もあるが、それについては大野鑑定人はどう判断したのか、ただ沈黙を守っているだけである。因みにこの点について長野鑑定書・遠藤鑑定書にも検討を加えている。兎(と)に角(かく)大野鑑定ではこのことに触れようとせず、全然別の観点から考察して如何(いか)にも脅迫状と上申書とが違うように記載しているのは鑑定人の態度としては甚(はなは)だ遺憾である。
更に宛字について御専門の万葉仮名にでも思いを致されたのか「このような宛字は能力の低い者のすることでない、この脅迫文は極めて作為的であり之(これ)には前に一度文章を作り、その文章の中の特定の音節を仮名から当て字の漢字へと置きかえた下書きを作りそれをもとにして書き上げたものである」と断定し、被告人は脅迫文の原文の起草者たり得ないとしているが、その天馬空を行く大野氏の御判断に水を差して恐縮だが、被告人が逮捕後一年以上を経過した昭和三十九年八月二十一日東京拘置所から関源三宛出した手紙の中に「わざわざお仕事が忙しいのに来て呉れなくても"言い出すよ"」との記載がある(注:2)。大野先生に云わすれば、図らずも優雅な万葉仮名が出て来たことになる。
之(これ)が被告人の筆跡であることは勿論で、親しい関への手紙なので特に作為することも考えられず、何も苦労することないところに不用意に出て来たものである。時期のかなり遅れて出て来たということは被告人自身その記載が正しくないということは、その頃ははっきり認識していたが、不用意に昔の癖が出て来たとみてよいのではないか、被告人は十分脅迫状作成者としての資格を持っていることとなる。このように鑑定結果との喰い違いの出て来た原因は記述能力、表記能力という面から筆跡の異同を考えるということ、それは着眼としては一見優れたもののように見えるが、能力の問題だということから考えれば之(これ)は精神作用の問題であり、一種の精神鑑定の問題であることに注意しなければならないことによると思料する。
一般の筆跡鑑定では鑑定物件をA、被告人Cの書いた対照物件をBとするとBはCの書いたものである。AとBは同筆又は異筆である。従ってAはCが書いた或いは書いたものでないと云うことになるが、本件では先(ま)ずBは小学校五年くらいが書いたものである。
従ってCは小学校五年の学力しかない、Aは小学校五年では書けない、従ってAは被告人の書いたものではないという論法である。上申書は小学校五年くらいが書いたものである。従って被告人は小学校五年の学力しかないと"しかく"簡単に云えるだろうか、精神能力の判定に一般に行なわれるように少なくとも本人に審訊することもなく判断が下せるものだろうか、此処(ここ)いらに問題が存在するように思われる。大野鑑定人が被告人に会う労も尽くさず一種の精神鑑定まがいの判断を下したことについてその方法論に遺憾な点があったと云わざるを得ない。
本件鑑定書三通は、綾村鑑定書はややニュアンスを異にするが何(いず)れも鑑定資料の各文字は捨象して、或いは早書きか否か、横書きに馴れているか否か、句読点、段落が付いているか否か、誤字、宛字があるかというのを捉えて筆跡の同一か否かを論じている。
然(しか)し、それらの点が常に恒常性のあるものとして、個人識別が出来るものならば、本鑑定人らの判断は正当であろう。然(しか)し、日本文字の場合、英語に比較しても分かるように習字教育そのものがそれらのものについてコンスタンシー(注:3)を要求しておらず、我々も経験するところであるが、特に改まった場合を除いては句読点に注意せず、段落を無視する、要するに、書写態度如何(いかん)にかかっており、そこに何らの恒常性もなく、之(これ)を例えれば、道路の右側を歩いている人がたまたま左側を歩いているから人が違うと云うに等しくナンセンスである。
同じ句読点と云っても、例えば、書画の落款の「点」の有無はコンスタンシーのあるものとして筆跡鑑定の対象となりうるが、本件のような普通の文章体において本件鑑定人らが行なったように個々の文字の検討を捨象し、何ら恒常性のない分野において種々判断を加えても、極めて信憑性の薄いものと云わなければならない。
以上
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注:1 「しかく」=《副》「しか(然)」の別の言い方。そう。
注:2 この辺りを補足すると、検察官からすれば、この「言い出すよ」部分は本来、「いいですよ」と書くべきところ、「で」を「出」という文字で表記しており、これは脅迫文を書いた過去のある被告人がその癖を不用意に出したと、こう言っていると思われる。
脅迫状では「で」という字はほぼ「出」という漢字で書かれている。
注:3 「コンスタンシー」=不変性、永久的、恒久。