前回までに弁護人:山上益郎は五つの鑑定書(筆跡に関する鑑定が三つ、玉石及び棍棒、そして残土について、それぞれ一つずつ)の立証趣旨を述べた。その中の筆跡に関する鑑定を行なった方は次の三名である。
○学習院大学教授 文学博士 大野 晋
○書道家 綾村勝次
上述した鑑定書が掲載された書物が、我が古本魔窟部屋のどこかにあったはずだと捜索に着手し、三時間後に発見する。捜索の際、今までに見たことのない虫と遭遇し、かなり必死に格闘し疲れ果てる・・・。
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「脅迫状における句読点」鑑定書
学習院大学教授 文学博士 大野 晋
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○鑑定資料
一、東京高等裁判所 昭和四十一年押第一八七号証の一(脅迫文)
二、浦和地方裁判所 昭和三十八年押第一一五号符号六〇号(石川一雄の上申書)
○鑑定事項
一、脅迫状と上申書とにおける漢字・仮名使用上に著しい相違があるか。
二、もし相違があれば、その原因は何であるか。
○鑑定結果
一 、脅迫状と上申書とにおける漢字・仮名使用上には顕著な相違がある。
二、その相違は、脅迫状の原文起草者と、上申書の筆者との読み書き能力に、大きな差が存在した結果と推定される。ここで脅迫状の原文起草者と称するのは、現存する脅迫状の筆者と、文章の起草者、あるいは下書き者とが別人である場合も考え得られるからである。
○鑑定結果に至る判断について
本鑑定人は鑑定資料の実物を実見することが不可能であるから、写真資料によって判断の正確を欠かない範囲の問題を取扱うものである。また、上申書と脅迫状とだけを鑑定資料として用いるのは、被疑者が逮捕された後、脅迫状を見せられながら、その文章を書き習ったことを供述している以上、逮捕後の文章、文字は、任意自然の表記と見ることを控えるべきものと思料されるからである。
上申書は逮捕以前の表現であるが、これは警察官の指導によって書かれた疑いがあり(例えば上申書下端に上申-縦書-と練習したと推察される筆跡がある)、純粋に任意自然とは言いかねるが、しかしその中に取り上げうる点があるのでそれを用いる。
一、上申書の用字について
上申書には次の誤字がある。
(12)この日は→この日わ
右の(1)(2)(3)(4)(5)(6)に見られる漢字の誤字は、この表記者の漢字の書字能力が極めて低いことを示している。(7)に見られる「はたくしわ」という表記は、この表記者が「は」と「わ」とを同一視していることを示すもので、これは小学校低学年の児童が多く陥る誤りである。(8)に見られる「にさの」という表記は、日常口頭語だけで暮らしていて、新聞や雑誌などを読まない、田舎の老人や子供などに見られる表記である。(9)の「しげさんのんち」という表記も同様である。(10)「行ってません」のつもりで「エでません」と書いていることも、文字表記の生活に慣れていない人の特徴をよく現わしている。促音と撥音とを取りちがえるのは、文字表記能力の低い人に見られる現象である。(11)(12)に見られる助詞「は」を「わ」と書く現象は、学力の低い人に普通に見られる現象である。
また、「直し」にあたるところに「なし」と書いてあるが、このように母音オにあたる仮名を脱落させるのも、文字表記に不慣れな人のよくすることである。
この上申書の文字を、書き手は一貫して平均した速度で書いており、特別の技巧を弄した表記とは見られない。従って右の誤字・誤表記・脱字は、書き手の表記能力を自然に反映させた結果であると判断される。また「上申書」の「書」の字も誤っている。
この文字能力は被告人の学歴を見ることによって理解される。被告人は小学校に昭和二十年四月六日入学、昭和二十六年三月二十八日卒業しているがその出欠は次の通りである。
出席日数 欠席日数
一年=百九十六日 六十六日
二年=百三十一日 百十六日
三年=二百十三日 二十九日
四年=二百二十五日 二十日
五年=百三十九日 百十三日
六年=七十八日 百八十七日
国語の「書く能力」は、小学校四年、五年、六年ともに−2の評価を受けている。−2とは五進法でいえば1にあたる。
「筆跡鑑定事項中第二の鑑定を行なうための資料としての被告人質問」の中で、戸谷鑑定人の質問に答えて被告が「うちで字を習うのは、選挙に行く前くらいで、後は字を書いたことはありません」と述べ、「選挙に行かれる前に自分のうちで候補者の氏名を練習していたのか」「そうです」「後はうちでほとんど字を書いたことがなかったのか」「そうです」と述べているのは、被告人の文字能力を如実に示すものであり、上申書に示された表記によって推定される筆者の文字能力と、それとは正しく同様のものと思料される。
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次回、「脅迫状の漢字・仮名使用について」へ続く。