アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 693

【公判調書2175丁〜】

                「第四十三回公判調書(供述)」

証人=斉藤留五郎(五十歳・警察官)

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裁判長=「証人は昭和四十一年六月五日に高血圧で倒れ、三十六日間意識不明、その後二か月入院したということだが、その後いつ頃から出勤しているのですか」

証人=「十月頃からと覚えています」

裁判長=「それから外勤はしていないのですか」

証人=「していません」

裁判長=「今はどういう仕事をしているのですか」

証人=「取調主任をしています」

裁判長=「今、医者にかかっているのですか」

証人=「かかっています。月に二回ないし三回行っています」

裁判長=「薬は飲んでいるのですか」

証人=「はい。まだ足などの痛みは取れません」

裁判長=「病名は何でした」

証人=「脳溢血です。血圧の低い方が高い方について倒れたのです」

裁判長=「どのくらいだったのですか」

証人=「そのときは百九十ぐらいでした」

裁判長=「今はどうです」

証人=「低い方が九十四、五で高い方が百六十ぐらいです」

裁判長=「今はその程度で安定しているのですか」

証人=「はい。安定しています」

裁判長=「右手で物を書くことは出来るわけですね」

証人=「ようやく書けるようになりました」

裁判長=「不自由なのはどういう点ですか」

証人=「右足のつま先に近い方が不自由なのと、急いで歩いたあとはすぐ書くことが出来ません」

裁判長=「歩行はどうですか」

証人=「速くは歩けませんが、普通には歩けるようになりました」

裁判長=「乗り物に乗ることは差し支えないのですか」

証人=「はい」

裁判長=「耳はどうですか」

証人=「右がよくありません。歩いたあとは耳鳴りがします」

裁判長=「安静にしているのがよく、動いた直後は調子が悪いわけですか」

証人=「そうです」

(裁判長は、この証人の尋問は他期日に続行することとし、尋問期日は追って決定する旨を告げた。)

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【公判調書2178丁〜】「欠席届」

昭和三十九年(う)第八六一号被告人石川一雄の証人として昭和四十六年三月九日午後一時三十分迄に東京高等裁判所刑事第二号法廷に出頭するよう召喚状を受取りましたが私は右の事件については何も知りません。

又別紙診断書の通り神経痛の疼痛のため苦しんでおりまして床に寝ておりますので外出は出来ません欠席致します。                                      

昭和四十六年三月二日            狭山市狭山  犬竹  幸

東京高等裁判所第四刑事部裁判長判事 井波七郎 殿

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ここからは狭山事件公判調書をはなれ、関連する書籍より目に止まった情報を記録しておく。

増田秀雄氏は、佐野屋での身代金受渡しの晩、中田登美恵に付き添った(佐野屋横の茶垣で待機)人物である。元憲兵下士官であり事件当時は堀兼中学校PTA会長を務めていた。

狭山署長の竹内武雄は佐野屋での張込みの段取りに際し民間協力を得るため真っ先に増田秀雄氏に連絡、依頼している。防犯協会等の活動を通じ互いを知る中とは言え、人命が懸った事件に対し、そう簡単に民間協力は出来まい。増田氏がこの様な信頼を受けていた遠因の一つとして次のような行動が挙げられようか。 

「昭和二十九年、堀兼小・中学校、堀兼診療所、堀兼澱粉工場等に計八本(甲乙にて)の電話が架設されたのは、増田秀雄ら三人が発起人となり活躍した結果である」

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増田秀雄氏は警察から民間協力を依頼された際に、一人では重荷ということで松本留造という人物との共同協力を上申し、実施する。増田秀雄氏が信頼を置く松本留造氏は当時交通安全協会の副会長を務めている。彼の行動を調べてみると、「昭和十八年、大東亜戦争が苛烈を極める折、堀兼一九七〇番地の松本留造氏は、たまたま軍の指定工場として日夜軍需物資の製造に努力していた。そのため、急を要する連絡事項があることから、軍証明を受けて電話を架設することとなった」とあり、堀兼地区においてかなり早い時期に電話の架設を行なっている。

たまたまではあろうが、二人とも電話という連絡手段の確保に奔走していた共通点が見られる。

狭山事件においての松本留造氏の役割は、事件発生直後の捜査の前線基地として自身の建屋の提供(松留織物工場)であった。

念のため張込んだ一日の晩に続き、指定された五月二日、その恐怖から佐野屋へ行くことを拒む中田登美恵を説得するために使われた部屋は、松本留造宅の離れの応接間であり、説得役は増田秀雄氏であった。

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石田一義(養豚場経営)方に出入りする者が二十七人であったにもかかわらず、六人が除外され二十一人しか挙がっていない。その除外された六人の内、たとえば町田忠治に対しては捜査本部が強く容疑を抱き、五月一日のアリバイに関する報告書をはじめ四通もの証拠書類が作られており、町田忠治を血液検査の対象から外したとは到底考えられない」(「狭山・虚構の判決」P.90)

・・・記録によると警察犬が追跡を断念した付近に彼の住居があるのだが。

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事件当時の万年筆のインクについて。

「没食子酸」=茶、没食子、五倍子などに含まれ、またタンニンを加水分解しても得られる。光沢ある無色針状の結晶。味は渋く収斂性があり、還元性が強く鉄塩と青黒色の沈殿を生ずる。収斂薬、還元剤、インク製造原料となる。

「没食子酸インク」=書いたばかりのときは青色だが、日が経つにつれて濃くなり、一ヶ月もすると濃い紺色に変化、一年も経てば黒に近い紺色となる。この段階では水に浸しても消えないという。