アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 604

【公判調書1890丁〜】

               「第三十九回公判調書(供述)」⑭

証人=中  勲(五十七歳・埼玉県消防防災課長)

                                         *

裁判長=「あなたの経歴、略歴を簡単におっしゃって下さい」

証人=「昭和九年九月埼玉県巡査を拝命しまして、昭和十年一月三十一日に警察官教習所を卒業、昭和十二年九月に巡査部長、十四年五月埼玉県警部補、十四年九月から十六年十一月までノモンハン事件(注:1)に応召しました。帰って参りまして十九年三月から終戦の二十年九月まで大東亜戦争に応召しました。帰って参りまして二十一年十月、任警部埼玉県の警部です。

二十二年九月、幸手警察署長。引続きまして杉戸、松山警察署長。二十四年十二月、任警視。加須警察署長、朝霞警察署長を経まして、三十年一月、警察本部鑑識課長。三十一年二月、警ら交通課長。三十四年八月、捜査第一課長。三十四年六月、川越警察署長。三十五年八月、任警視正。三十六年十一月、警察本部刑事部長。三十八年八月、浦和警察署長。四十年四月、任警視長。四月二十九日退職いたしました」

裁判長=「それからのちは」

証人=「四十年五月一日に埼玉県の事務吏員を命ぜられまして消防課長に補せられまして現在消防防災課長でございます」

裁判長=「そうすると、三十八年八月から四十年四月までは浦和警察署長ですね」

証人=「三月まででございます。三月二十五日警務部付になりまして四月二十九日、警視長就任退職でございます」

                                          *

石田弁護人=「昭和三十八年五月一日に善枝ちゃん事件が発生したということをご存じですね」

証人=「はい」

石田弁護人=「当時あなたは先程のお話で、埼玉県警刑事部長をなさっておったようなんですが」

証人=「はい」

石田弁護人=「事件発生はどこで知りましたでしょうか」

証人=「確か官舎で、電話で受けたと思いますが」

石田弁護人=「どなたから電話連絡を受けたんでしょう」

証人=「捜査一課の将田警視のように記憶しております」

石田弁護人=「どのような報告の内容だったんでしょうか」

証人=「善枝さんが下校の途中で行方不明になったということと、それから中田栄作さんの、善枝さんの父親でありますが、そのところへ自転車と脅迫状が差込まれたという報告だったように記憶しております」

石田弁護人=「それは五月一日のうちに受けたんでしょうか」

証人=「五月一日の、何せ古いことなんではっきりしていないんですが」

石田弁護人=「事件当日」

証人=「事件発生の、間もなく受けたと思いますが」

石田弁護人=「それで、あなたとしては何か指示など将田警視に対して与えましたか」

証人=「はい。それが当時たまたま例の吉展ちゃん事件の起こった直後だったので、やっぱり同様な事件ではなかろうかということで、被害者の人命の保護を第一として捜査をするようにという指示をしたと思います」

石田弁護人=「何か当日脅迫状のことなども報告を受けてますね」

証人=「ええ、一連の関係の報告を受けていると思います」

石田弁護人=「当日の夜といいますか、夜中に脅迫状の中に書いてある佐野屋のところに犯人が現われるかも知れないということで人を出させた、そういう指示をしたことはありますか」

証人=「これは現地の報告で、確か一日の晩か二日というんですが、二日の朝か一日かはっきりしないということで、現地が独自に一日の晩に張込みをしたという報告がございまして、私のほうが確か二日というのだから要するに三日の未明ではなかろうかという判断だったんですけれども、現地は一日の、すなわち二日の未明にも張込みをした報告を受けまして、私のほうは三日朝、二日の晩に厳重な警戒をしろという指示をしたように覚えておりますが」

石田弁護人=「そうしますと五月一日の晩はあなたが当日夜張込むようにという、そういう指示はしてないということですね」

証人=「五月一日の日は特に警戒を命じておらなかったように記憶しております」

石田弁護人=「五月二日の夜には警戒をせよと、張込めという趣旨のことを五月一日の段階で指示を出されたんでしょうか」

証人=「その点ははっきり記憶は、記録を見ませんとはっきりしませんが、いずれにしても文面に、脅迫状に書いてございます五月二日夜十二時佐野屋ということですから、五月二日の晩から三日の未明にわたって厳重な張込みをするようにという命令をすると同時に、実は私どももその後から署のほうに出てまいりました」

石田弁護人=「一日にですか」

証人=「二日だと思います」

石田弁護人=「ではついでにお尋ねしますが、五月二日の晩、佐野屋の付近にかなり大勢の警察官が張込みましたですね」

証人=「はい」

石田弁護人=「その現場にはあなたもお出かけになったんですね」

証人=「参りません」

石田弁護人=「行ってないんですか」

証人=「はい」

石田弁護人=「当時の新聞報道によりますと、狭山署長と共にあなたも佐野屋の付近にあった警戒の中に加わっておられるようなんですけれども」

証人=「竹内署長も行ってませんですね。私は捜査員が出たあとへ、実は所沢の西武園の池伝々という脅迫状の文字もございますので、一応所沢署員を召集しまして西武園付近も警戒を厳重にするようにという指示をしました。それから狭山に出てまいりましたので捜査員が大部分出たあとへ、私狭山の警察へまいりまして、それで報告を待っておったんです」

石田弁護人=「そうするとあなたも竹内署長も狭山署の中におられたんですね」

証人=「はあ、確か署長も同席しておられたように記憶しております」

石田弁護人=「張込ませた警察官は合計何名くらいだったんですか」(続く)

                                           *

と、ここでいよいよ、狭山事件における警察側最大の失態であろう「佐野屋での犯人取逃し」の実態を白日の下へ晒すべく石田弁護人は迫ってゆく。

ところで(注:1)であるが、実は原文通りの引用ではない。原文とは私が引用元としている公判調書を指すが、そこにはこう記されている。「昭和十四年九月から昭和十六年十一月までノセンハン事件に応召(写真参照)。」

愚かな私は「ノセンハン事件」をネットで検索するも、そこには「ノモンハン事件」に関する情報が満ちあふれ、念の為、その事件発生年月日など確認した結果、証人が応召された件は「ノモンハン事件」であると断定できた。この事件とは、発端が満州国モンゴル人民共和国の国境付近にあるノモンハンにおいて、その国境線を巡り両国による紛争が発生したことであり、これがやがて、日本、ソ連による大規模な軍事衝突「ノモンハン事件」へと発展・・・。いや、今ここでそれに触れるつもりはなく、前述した「ノセンハン」との表記はなぜ発生したかである。単なる誤植なのか、あるいは、そもそも証人が法廷で「ノセンハン」と発言し、速記官が正確に記録し、のちにやはり正確に反訳、間違いなく文章化したとすれば、むしろ気を利かせたつもりの私が間違っていたことになるではないか。もうこの問題は打ち切ろう。