【公判調書1640丁〜】
第一{遺留品をめぐる問題} 橋本紀徳
五、スコップ
(1)スコップの処置について自白は次のようである。
「私は善枝さんを埋め終ると二階家の方へシャベルを持って帰りかけましたが、それを途中から右へ曲がって畑の中を通り、埋めた場所から四十米くらい離れた畑の二尺くらいの道を通りながら畑の中へ放り投げてシャベルを捨てました」(九月二十五日付警察官調書第十四項)
「死体を埋めるのに使ったスコップ、これは石田豚屋から盗ってきたものですが、自分の家に帰る途中で畑に捨てて帰りました」(六月二十五日付第二回検事調書第二項)
「それからシャベルを捨てたのですが・・・・・・」(六月二十九日付警察官調書第二十四項)
スコップの処置に関する自白は僅かにこれだけであるが、いづれも帰りがけに「捨てた」と云う点で一致している。しかし、「捨てた」と云う自白と、スコップ発見者の須田ギンの原審第五回公判における証言とは明らかに矛盾する。原審第五回公判調書から関連部分を抜き出すと次のとおりである。
問「そのスコップを発見してどうしましたか」
答「もう全然手をつけず現場の近くだけにピンときましてすぐ署へ届けました」
問「現場と云うのは」
答「死体現場でございます」
問「ピンときたのは、あなたはどう思ったのですか」
答「うちの道具ではないということは、はっきりしていました。それでシャベルのほうに泥がいっぱい付いていまして、さくへうちの者が置いていったのと違って置き方がちゃんと隠しかげんになっていたんです」
問「隠すかっこうをしていた」
答「そうです。麦の根っこに。それでピンときたんです」
さらにスコップは、
「麦が倒れないように麦の方へ泥がさくってある、その泥の山と麦の株の間に横になって寝かしてありました」と云うのである。須田ギンの右証言はスコップが発見現場に関する福島英次作成の三十八年五月一日付実況見分調書添付写真に符号する。
以上のとおり、第一発見者の証言によれば、スコップは明らかに隠すように置かれてあったもので、投げ捨てられてあったと云う状況にはない。投げ捨てたものとすれば、スコップは須田ギンが述べるように、麦の畝に真直ぐに沿って刃先を横にして、麦の畝と土との間にきっちりと留まるなどと云うことはあり得ない。また附近の麦が折れたり倒れたりして、投げ捨てられたスコップが麦に当たったために出来る痕跡が存在する筈であるが、そのような痕跡は少しも見当たらない。スコップを投げ捨てたと云う自白とスコップの発見された際の実況は明白に矛盾するのである。この点に関する自白もまた明らかに客観的事実と合致しない。
また、六月二十九日付警察官調書第二十六項、当審七回公判の青木、二回公判の諏訪部、十二回公判の将田など各証言によると、スコップ発見現場附近から、地下足袋らしい足跡を発見したと言われている。この足跡の持主とスコップを隠した者とに関連があるのではなかろうか。この地下足袋の者がスコップを隠したのではなかろうか。死体、鞄、教科書など、犯人は一連の物を隠している。スコップもまた犯人が隠したのである。死体を埋めた附近には、地下足袋の捨てたものがあった。佐野屋附近の足跡も地下足袋と云われている。スコップの現場にも地下足袋がある。犯人は地下足袋を履いて行動したと考える余地は十分ある。
五月一日当時、被告人はゴム長靴を履いていた。地下足袋の足跡は被告人の足跡ではあり得ない。これらの点についても、未だ疑問は解明されていないのである。
(2)スコップの同一性確認の経過も疑問がある。自白によると、スコップは中田栄作方へ脅迫状を届けた帰り途、石田豚屋から盗んできたものとされている。石田豚屋からスコップ盗難の届が出たのが五月六日、スコップの発見が五月十一日、右スコップが埼玉県警察本部鑑識課へ鑑定のため回されたのが五月十二日、そして被害者石田一義から警察宛に被害品の確認の書面が出されたのが五月二十一日なのである。(以上、当審第十三回将田証言及びスコップに関する三十八年六月二十六日付星野正彦等作成の鑑定書)
右の経過からみると、警察は発見されたスコップがどこのものとも分からない内に直に鑑定に回してしまったことになる。これは誠に奇怪なことである。普通なら当然その品物を被害者に見せ、被害品に間違いのないことを確認した上、鑑定に回す。警察はあえて被害者に尋ねなくとも、本件スコップがどこのものであるか予め知っていたのであろうか。疑問無しとしないのである。
*次回、“六、ビニール布と「丸京青果の荷札” に進む。
スコップが発見された時の状態(写真は“ 無実の獄25年狭山事件写真集=部落解放同盟中央本部中央狭山闘争本部・編、解放出版社” より引用)
スコップ発見現場付近の状況。