アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 543

【公判調書1712丁〜】

「自白の生成とその虚偽架空」            弁護人=石田  享

四、自白の虚偽架空

(二)自白を否定する物証

4.死体発見現場附近の地下足袋とその足跡

青木一夫当審六回公判証言、諏訪部正司当審十一回公判証言、将田政二当審十二回証言等によれば、スコップが発見された頃、死体発見現場ないしスコップ発見現場附近の麦畑から左右揃った一足の地下足袋が発見され、これが領置された。また長谷部梅吉当審九回公判証言、諏訪部正司、将田政二の右証言によれば、同じ場所附近から地下足袋の足跡が発見され採取された。この地下足袋と足跡が、犯行及びスコップを捨てた事と密接不可分に関係する物証であり、その意味で捜査当局が関心を示したのは当然であった。しかし、被告人はこの地下足袋や足跡を知らなかった。

問、「君はシャベルを捨ててからかその前かに、その他捨てたものはないか」

答、「ありません」(6・25青木調書十六項)

                                          *

「私は五月一日の夜善枝さんを埋めた後、何か捨てたものはないかということですが、何も捨てたものはありません」 

問、「地下足袋を捨ててきたことはないか」

答、「ありません」(6・28青木調書二項)

                                          *

問、「その他捨てたものはないか」

答、「捨てたものはありません」

問、「地下足袋は捨てないか」

答、「捨てません」(6・29青木調書二十六項)

自白は、この地下足袋と足跡によっても否定される。のみならず、被告人の五月一日の履物は長靴であり、地下足袋ではなかった。もともと被告人は殆ど地下足袋を履くことはなく、通常ゴム長靴を履いていた。この事実は五月二十三日の別件逮捕以来、被告人が一貫して述べ続けている(5・24清水調書三項、5・27清水調書五項、6・2清水調書二項、6・7清水調書二項、6・22青木第一回調書八項、7・6青木調書一〜二項)。

そのため取調官らは、被告人の自白をこの地下足袋とその足跡に合わせるべく、被告人に対し、五月一日夜死体を埋める作業を誰かに手伝ってもらったのではないかと責め立て、或いはスコップを盗んで芋穴の所に戻ってから一旦家に帰り、地下足袋を履いて来たのではないかと誘導を試みたが、いずれも不成功に終わった。

問「埋めることを誰かに手伝って貰ったか」

答「誰にも手伝って貰ったのではありません。私が一人で埋めたことに間違いありません」(6・28青木調書二項)

問「一旦家へ帰って出直したのではないか」

答「大丈夫です、一旦家へ行って出直したんなら寝られないです」(6・29青木調書二十六項)

                                            *

「私が五月一日善枝ちゃんを殺してから善枝ちゃんの家へ手紙を届け、その帰りにシャベルを盗んで来て、そのシャベルで穴を掘って善枝さんの身体を埋めたのですが、その間私が履いていた履物はゴム半長靴であります。このゴムの半長靴は左足の内側が少し切れています。五月一日には私は地下足袋は履きません。私は五月一日の夜は善枝さんを穴の中に埋けて(注:1)しまってから家へ帰ったのであって、一度家へ帰って夜半に出掛けて来て埋めたのではありません。地下足袋がもう一足見つかって、それが私の家の足袋に似ているということですが、私には誰の物かわかりません」(7・6青木調書一、二項)

被告人と、この地下足袋及び足跡とは全く無関係であった。この意味は重要である。客観的事実は、捜査当局も当時認識していたように、この地下足袋と足跡はスコップを捨てたことと密接不可分につながっていた。言いかえればスコップを捨てた行為者の足跡であった。被告人はそれと全く無関係であった。

この地下足袋及び足跡と被告人とが無関係であったという明白な事実は、スコップを捨てたという自白が真赤な虚偽であることをも連的に明らかにする事実である。このことは同時にスコップ全般に関する自白の虚偽架空を示す事実でもある。

*次回 “5” へ進む。

(注:1)「埋けて」のヨミは「いけて」であり、この言葉は狭山地方の方言と思われる。

・・・地下足袋やその足跡もさることながら、そもそも被害者を埋めるのに使われたとされるこのスコップが、その発見のされ方に疑いが持たれるのである。このスコップ発見現場周辺は、被害者の遺体が発見された五月四日前後、すでに連日しらみ潰しの捜索がなされており(スコップ発見地点は死体発見現場から百五十メートルも離れていない)、一滴の滴も漏らさぬ完全なる捜索をかいくぐり、突如五月十一日、その姿を現すのである。機動隊、地元の消防団員、及び埼玉県内から動員された百六十五人の刑事たちがこれを見逃したというのか。

当時の被害者捜索状況。スコップに関する疑惑はまだまだあるのだが・・・。「写真は"無実の獄25年・狭山事件写真集=部落解放同盟中央本部中央狭山闘争本部・編、解放出版社"より引用」