アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 540

【公判調書1706丁〜】

「自白の生成とその虚偽架空」            弁護人=石田  享

三、再逮捕、再勾留と自白強要

(四)自白の生成と物証発見との関わり合い

こうしてみれば、三人説自白が単独犯説自白へ変化したのは、六月二十三日から何日か後のことであることにならざるを得ない。

被告人=の当審供述によれば、六月二十三日頃三人説の自白を始めたが(二回公判)、それから関、長谷部、青木、原ら取調官から「自動車で運んだろう」とか「その車はどこで借りたか」など自動車に関して責められ、或いは「入曾の人は知っているから入間川の人を教えてくれ」などと言われ、さらには原検事から「お前の精液を出して調べる」と脅迫されたりしながら三人説自白が四日間くらい続いたが、結局、自動車のことで行詰り、精液のことを言われて怖くなり、二十六日頃単独犯説に変わった、という(三回、二十六回供述など)。

一方、本件での捜査の特色の一つは、物証の発見ないし押収に、必ず民間人を関与させているので、「その」発見ないし押収に関する限り、第三者の供述証拠が余りにも調子よく存在する。例えば五月十一日のスコップ発見者は須田マサ子と須田ギンで(須田ギン一審五回証言)、五月二十五日の教科書、ノート類の発見者は宮岡貞男(宮岡一審五回証言)、六月二十一日のカバン、牛乳瓶、ハンカチ、三角布の押収には宮岡貞男、斉藤実、関口実、指田春吉らが立会いを求められ(宮岡前記証言)、六月二十六日の万年筆発見は、石川六造が小島らに命ぜられたまま手をやると万年筆が出て来たり(石川六造当審十六回証言)、七月二日の腕時計は老人の小川松五郎をして発見させた(小川松五郎7・3《検》原調書)、という具合にである。

しかし六月二十一日のカバンなどの発見は、すでにみた通り、実は未だ被告人の自白がなされていない段階のもので、被告人の自白に基づくものではないことを論証した。六月二十六日までは、公式的には万年筆と腕時計は全く発見されていないことになっている。しかし、実は当時の報道記事によると、六月二十五日、A紙の新聞記者に「警察が善枝さんの万年筆と時計を見つけた」という警察情報が入っていたのである(弁護人の当審昭和四十三年八月二十七日事実取調請求書17)。もし、しかりとすれば、警察が万年筆と腕時計を少なくともそれらが公式に「発見」される前に入手していたことになる。被告人の当審供述の内、これに合致するものがある。例えば、長谷部から被害者の腕時計を見せられ、腕にはめてみたことはあるが、雷がすごく鳴った日のことで、六月二十八日頃である、という(三回、二十六回)。

結論を急ごう。

捜査本部ないし取調官が、自白と物証の発見とに関して、「自白に基づき」発見されたというトリックを用いたことである。すでにみた通り、三人説自白の際、被告人にカバン、教科書を捨てさせた。その際、それ以前に「発見」されていたカバンに日時を合わせるべく自白調書の日付を何日か前へ遡らせて、六月二十日と記載した。三人説自白が単独説自白に移行するや、直ちに捜査当局はあらかじめ用意したトリックの実行に着手し、万年筆の捜索に「確信」を持って被告人宅へ赴き、兄六造に万年筆を取り上げさせたのである。こうしてみれば六月二十六日頃、三人説から単独説へ自白を改めたという被告人の当審供述とぴたり合致することになる。ちなみに、六月二十一日発見された鞄と、二十六日発見の万年筆が、被害者が所持していたものかどうかの捜査はかなりルーズであり、本来容易に確認できる筈であるにもかかわらず同月二十九日に至るも未了であった(勾留の期間延長理由)。捜査当局があらかじめ用意した手品を使ったことがほぼ推定されるというところである。またこの自白の大変化期の中で万年筆と時計が初登場するのは、日付を凡そ五日間ほど遡らせている例の6・24(員)青木調書(二〇七〇丁以下)である。

*以上「三、再逮捕、再勾留と自白強要」の引用を終え、次回「四、自白の虚偽架空」へ進む。