アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 539

【公判調書1705丁〜】

「自白の生成とその虚偽架空」            弁護人=石田  享

    三、再逮捕、再勾留と自白強要

(三)被告人の自白はいつから始まったか。

2.医師の診断が、絶食後暫く日が経ったのち自白前に行なわれており、診断の日が六月二十二日頃であること。

被告人が川越署分室に拘禁されて間もなく、十九日か二十日頃、食事が不味く斉藤刑事と言い争いとなって絶食を開始し、何日間か絶食を続けた(被告人当審二回公判供述)。絶食が暫く続いて手を焼いた取調官は、川越署分室に医師を呼び被告人を診断させた(被告人当審三回公判供述、長谷部梅吉当審十回証言)。三人説自白の前のことで、何故食事をしないかと医師が言うので、ケンカしたから食わない、と返事をしたら、医師は被告人の身体を診察して「どこも悪いところがない」と言い、それを側で見ていた長谷部が「どこも悪いところがないなら自分で勝手に食べないのだ」と笑っていた、のであった(被告人当審三回公判供述)。その日が何日であったかにつき、長谷部当審十回証言によれば、移監後四、五日か、一週間程経ってから後である。四日後とすれば、六月十七日に川越へ移されているから六月二十一日。五日後とすれば六月二十二日となる。いずれにしても絶食開始後、且つ裁判官の勾留尋問の後であることが確定的である。その上、被告人の当審二十六回公判供述によれば、三人説自白の前の日であり、医師が来た時は一切自白していなかったのである。

長谷部、青木ら取調官は被告人に対し深夜にわたる取調べに踏切るためには、被告人の絶食という状況の下で、その健康に異常のないことを確認しておきたかったし、且つそのために医師を呼んでおくことが有益と考えたものであろう。

 

3.六月二十九日と記されている図面が六月二十四日調書に添付されていること。

六月二十九日と記載されている「時計を捨てた場所」の図面(二〇七五丁)が六月二十四日付(員)青木調書(二〇七〇丁以下)添付図面であることに触れてみる。

第一に、そもそも後に作られた図面がそれ以前に作成された調書に添付される、ということは、それ自体奇怪なことである。その意味だけでもこの六月二十四日調書は疑う必要がある。

第二に、この調書は、この添付図面と不可分一体の記載内容になっていることである。四頁に、時計を「田中あたり」に捨てたと記載され、正しくその説明図として右六月二十九日付図面が添付されているのである。

第三に、腕時計に関する「田中あたり」の捜索が、ここではその不自然、奇怪な捜索方法を別にして、外ならぬ六月二十九日頃から始められている事実である(小島朝政原審五回証言及び飯野源治当審二十五回証言参照)。ちなみに将田政二当審十二回証言によれば、「時計を田中に捨てたという供述がでてから実際に捜査を始めるまでに、或いは一日くらい日にちがあったかも知れません」という程度で、要するに自白と接着して時計の捜索を行なった、という。ここで調書の日付問題に絞って結論を出すことができる。被告人6・24(員)青木調書(二〇七〇丁以下)は添付図面(二〇七五丁)の日付である六月二十九日頃に作られたものである。こうした事実は、被告人の自白が、実際なされた時期が自白調書の日付よりも何日か遅かったこと、逆に言えば調書の日付は実際の供述が得られた日よりも遡って日付の記載がなされたことと深く結び付いている。その意味でこの事実も、自白の始まりが調書記載の六月二十日ではなく六月二十三日頃である、という被告人の当審供述が真実であることを証明するものである。

*以上で(三)の引用を終える。次回は(四)へ進む。