アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 555

【公判調書1797丁〜】

東京高等検察庁検事=平岡俊将の意見

第二、自白と証拠物。特に鞄、万年筆、時計の発見関係について。

   一、被告人の自白に基づき鞄の捜索がなされた経緯については、当審における被告人の陳述においても最初関源三に対し自供して捨てた場所の図面を書き、同人らが捜索に行ったが見つからなかったといって帰り、被告人が再度の図面を書いたことは事実として認めている。

そして当審における関源三、青木一夫各証人らの証言と、原審記録第一三五七丁以下の清水利一作成に係る実況見分調書に、鞄の発見が六月二十一日午後六時四十分であることや、その捜索発見状況が明白に記録されていること、これらと前記第一に述べた自白調書との関連照合により右鞄が被告人の六月二十一日自白に基づき捜索の上発見されたものであることは明らかで、これを争う被告人の主張陳述を納得させるに足る実証は何もない。

   二、被告人、弁護人は本件被害品の万年筆につきその所在は取調べ警察官の教示によって被告人が図面を書いたものであり、またあたかも発見以前に警察側が万年筆を入手していたかの如く言い、特に警察官が五月二十三日、六月十八日と二回に多人数の大掛かりな被告人方家宅捜索をしながら、勝手場入口の鴨居に置かれてあったという万年筆を発見するに至らず、六月二十四日の被告人の自白に基づき同月二十六日の捜索により発見されたことに疑惑があると主張する。

(一)弁護人は当審第六回公判における証人関源三に対し、被告人方の第二回目(六月十八日)捜索後、第三回(六月二十六日)捜索の間頃の時期に被告人方へ万年筆を持って行ったのではないかとの質問をされているところからみて、あたかも六月二十六日被告人方から発見された万年筆を、その前に関源三が被告人方へ持参し、後に発見された場所へ差置いて来たのではないかとの疑念を差し挟んでいるようである。

関源三は被告人とは事件以前から交誼関係のあったもので、本件中も被告人のために家族への連絡、差入れ、衣料取替の伝達等便宣を図り被告人方へ何度も訪れた状況にあることは一件記録上に現れているところであるが、同人は右証言において被告人方と家が近いので下着交換の伝言等のため出勤の途中便宜被告人の家に立ち寄ってやったが、いつも玄関から行く、勝手の出入口で伝言したことも一度あるが、それは玄関から行き声を掛けたが、お袋さんが勝手の方にみえたのでそちらへ廻って話した。家の中には入らないし勝手の方に廻ったとき母親が六造を起こしに行っている間、家に上がったというようなことはなく、もちろん六造に会った事実もない旨明言している。

当審で弁護人から申請された証人石川六造と石川りいは、第十六回公判(四十一年五月二十一日)において、このことについて証言しているが、石川六造の証言によると、六月二十六日の前に関が来たとき寝ていたらお袋が起こしにきた。何回も起こされるので起きたら関さんは上へ上がっていて、何だこっちに寝てるんかと言って、弟さんに頼まれて結局下着を取りに来たんだけれどもということであった。午前七時か八時頃のことで、起こされたとき関さんはお勝手に上がっていた。で私の方へ向いてくるんですよ、廊下に下りて四帖半の方へもう途中まで来てたんです。お袋と風呂場の入口のところで話していたのをちょっと聞いたような記憶もある。

下着を取りに来たというだけで、それ以外に特段の用事は無かったわけである。そのほかに関が尋ねて来てお勝手の方から来たことはない、いつも玄関から来る、あの人は坐ってくれと言っても坐らないんです、玄関に立ちっぱなしなんです、あの日に限ってどういうわけか知らないけれども誰もいないかと思ったのかもしれないけれど風呂場の方へ上がってきたんです、と述べており(注:1)、石川りいは、関さんが家の中に上がって来たことが一回ある、日は覚えない、いつもは玄関から入ってくる、上がってお茶を飲んだりすることはしなかった、玄関の土間へもかけてくれたことはない、上がり口にもかけないで立って話した、その日私はお風呂場で洗濯していた、関さんからおはようございますと声を掛けられてどなたかと思いいっぺんはわからなくて返事しなかったらお母さんですかっていうからはいって返事した、風呂場の前の外からお母さん一夫君が下着が欲しいっていうからもらいにきたんだけどといってくれたから、あれまあ誰もいないでこまつたねと私がそういって、で上がらしてもらうということで上がったんです、六造を奥四帖半に起こしに行った、その時には関さんは家の中に入っていた、障子をあけてすぐのところ板の間のところに、六造に一夫が下着を欲しいというだけどよわったねといってまた風呂場に入って洗濯していた、風呂場に入ってから六造と関が話を交わしていたが何だかそれははっきり覚えていない、関はすぐ帰ったと思うが、それもはっきり覚えていない、旨の証言をしている(注:2)。

ところで六造、りいの証言中にも表れている平素の関の行状からみても、関がすでに風呂場の母親に用を伝えたのに勝手場から上がり、さらに六造の言う如く廊下を通り六造の寝ているはずの最奥の四帖半の方へ途中まで来ていたというようなことはいかにも首肯し難い。記録の中に表れている事件中を通じての関源三と被告人の間の関係状況などからみても、関の証言は信用できるものがあり、一方、当時被告人方家族の警察に対する態度等、彼此合わせ考えると六造、りいの右証言は内容に合理的でないものを含んでいて深い洞察を加える必要があり、容易くこれを信用することはできないところである。しかも関が弁護人主張のように万年筆を持参して被告人方勝手場入口の上に差し置いてきたなどということを実証できるものは何らないのである。

                                             *

(注:1)文中に「石川六造の証言によると〜」と、ことわりがあるのでそのつもりで読み進めるが、途中から石川六造証言の引用なのか、平岡俊将検事の意見なのか分かりづらい記述となっている。今その分析は保留とする。

(注:2)石川りいの証言を羅列、恐ろしく読点を連発させた文章となっている。他に方法は無かったか。また逆に打つべき場所に読点が打たれていない為、呼吸を止め読みきらなければならない。「こまった」を「こまつた」と印字してあり校正係を呼びたくなる。

*平岡俊将検事をして首肯し難いと言わせた、被告人家族証言による関源三の行動、すなわち被告人の母りいに用事を伝えた後、屋内に立ち入り兄六造の部屋前まで迫ったという行為は、普段と違った関源三の動きに母親と兄は違和感を覚え、だからこそ二人揃って記憶に残らざるを得なかったのである。今回読んだ調書文面から感じられたことは、平岡俊将検事による関源三を擁護する根拠は非常に弱く説得力に欠けるという点である。ここには意外と平岡検事自身の「まさか関が万年筆を・・・」という不安が滲み出ているのではないか、などと老生は推測してしまうのだが。

(狭山事件発生時より並々ならぬ活発な活躍を見せた関源三巡査部長。写真は"狭山差別裁判・第三版、部落解放同盟中央本部編=部落解放同盟中央出版局"より引用)

次回、平岡俊将検事の意見、第二の二、その(二)(・・・ややこしい)に進む。