アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 541

【公判調書1708丁〜】

「自白の生成とその虚偽架空」            弁護人=石田  享

四、自白の虚偽架空

(一)犯人ならば知らぬ筈のない物証に触れない自白

死体発見現場で「死体の右側頭部に接して」人頭大の玉石が発見された(5・4大野喜平実況見分調書、見分の顛末・三の〈1〉及び現場写真)。この玉石は縦二十糎、横十六糎、目方六.六五キログラムで(大野喜平領置調書)、犯人が被害者の墓石用に供したものとみられる石であるから、このことに触れない「自白」は犯人の自白ではない。また万一、仮に玉石が墓石用に犯人によって供されたものでないとしても、死体を埋めるために農道を掘り起こした際に、或いは死体を埋める段階で必然的にこの玉石に気付いている筈である。したがって、この玉石をどのように観察しようとも、真犯人である限り玉石を知っている、とみなければならない。真犯人が自白すればこの玉石についても供述せざるを得ない筈の物証である。しかるに被告人の自白にはこの玉石が全然登場しない。被告人は死体を埋める犯行を全く知らないし無関係である、とみなければならない。同様のことは、丸京青果の荷札(これは新聞報道による物証、例えば38.5・6朝日新聞夕刊、38.5・7朝日新聞夕刊によれば、東京・築地の丸京青果の荷札が手拭い東京一緒に発見された)、芋穴からビニール風呂敷と一緒に発見された棍棒(5・4大野実況見分調書)などについても当てはまる。

(二)自白を否定する物証

物証と関わり合いが無いだけでなく、物証と自白のあり得べからざる異常な矛盾点も実に数多く、自白の虚偽架空性も全く明らかである。しかしここでは他の弁護人との重複を避けるため、いくつかの例を拾うに止める。

1.チャック付ガマ口(くち)

被害者の所持していた物の中にチャック付ガマ口があった(中田登美恵一審七十四証言)。自白調書によってもその点の取調べがなされたことは明らかであるし(6・27原調書七頁、7・1原第二回調書三頁)、特に7・1原第二回調書によれば、わざわざ問答体での調書記載がある。念には念を入れた取調べをしても、被告人はチャック付財布を知らなかった、という。

自白によれば「金が欲しかった」ので財布を盗ろうと考え、更に時計も盗って質に入れようと考えた(6・青木第一回調書四項)という程、非常に「金が欲しかった」というのであるから、それが仮に真実とすれば、被害者の所持するガマ口を知らない、というようなことはあり得ないところである。しかも、7・1原調書の月日頃、被告人は、すでに「全面的自白」を終えている時期であり、ことさらチャック付ガマ口について否定する理由も必要もなかった時期である。

しかるに自白によれば、「金が欲しかった」ので被害者の身体検査をし、質屋に入れたりしない限り金にならない女物の腕時計さえ、6・25原第一回調書四項によればその中に金が入っているかどうかは記憶しないまま、被害者宅へ脅迫状を届けに行く途中無くしてしまう、というのである。財布の中身を見る機会がないかと言えば、自白によれば、財布の中から身分証明書を取り出しているのであるから、ついでに中身を見ることも容易に出来た筈であった。

2.鞄の下から発見された牛乳ビン、ハンカチ、三角布

六月二十一日夕方、鞄が発見され掘り起こされるのと同時に、その下から牛乳ビン、ハンカチ等が発見されたという。これは、いずれも被害者の所持品と認められたもので、鞄と切り離し得ない関係にある物証であった。しかるに被告人は牛乳ビン、ハンカチを全然知らなかった。

問、「その時カバンの外に何か捨てたものはないか」

答、「ありません」

問、「牛乳ビンはどうか」

答、「全然気が付きません」(6・29青木調書二十二項)

「その鞄の下に物を置いたような記憶はない」(7・2原第一回調書一項)

検察官の主張によれば、牛乳ビン、ハンカチはカバンと共に被害者の所持物であった。また、客観的にみてカバンの下から牛乳ビン、ハンカチが発見されたことが特に疑うべき事情がない限り、カバンを捨てるのと同時に牛乳ビン、ハンカチが捨てられたものとみるのが事実に合致する。つまり、カバンを捨てた真犯人はその際牛乳ビンもハンカチも同じ場所へ捨てており、それを知っていなければならない。ところが自白ではカバンを捨てたというものの、牛乳ビンやハンカチは知らない、というのである。

客観的事実ではカバン、牛乳ビン、ハンカチは一緒の機会に捨てられているのに、自白ではカバンしか捨てていないのである。牛乳ビン、ハンカチがカバンの下から発見された事実は、被告人のカバンを捨てたことに関する自白が自らの体験に基づくものでなく、虚偽であることを明白にしている。

(写真は三点共"無実の獄25年・狭山事件写真集=部落解放同盟中央本部中央狭山闘争本部・編、解放出版社"より引用)

*次回「自白を否定する物証」 “3” へ続く。

○1966年に静岡県で発生した、「こがね味噌」専務家族四人殺害事件、いわゆる袴田事件の再審開始が昨日の午後、認められた。これはつまり袴田さんは無罪であると捉えてよいだろう。喜ばしいことである。この袴田事件が起こる前に同じ静岡県で「島田事件」なる冤罪事件が発生し、これらの捜査には天竜署次長・羽切平一警部が深く関与し、この人物を分析しようとするならば羽切平一の上司は国警、紅林麻雄警部補であった事が非常に分かり易く正確な分析情報となろう。今ここで、この「拷問魔王・紅林麻雄」について語ることは控えるが、冤罪事件が頻発した昭和三十年代、こういった輩に匹敵する者が狭山事件の捜査陣にも存在していたことは想像に難くない。