アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 502

【公判調書1618丁〜】

三つの「証拠物」                                              宇津泰親

〈 時計 〉

三、次に時計の「発見」について述べる。

時計を捨てた場所の捜索にあたったという飯野源治証人の証言内容は、極めて奇異なものであった。飯野証人は同僚四名くらいで、六月二十九日、三十日の二日間、一日二時間くらいを「現場」における時計の捜索に費やしたという。しかも捜索の範囲は、中道の丁字路の中心点から五メートルの範囲内の道路上および茶畑の中だけだったという。万能という農具を借りて茶畑の中を二畝くらい入って探したとも言っている。しかし数名もの警察官を動員し、二日間にも渡り、それぞれ二時間程度の捜索をしたというのに、その捜索範囲は、丁字路中心点からわずか五メートルの範囲に絞ってしまって、それから先は全然捜索しなかったというのは、まったく馬鹿げた言い分であって、何人をも納得させるものではないであろう。その五メートルの範囲を、ほんの二メートル延長すれば、後日時計が「発見」されたという地点をその範囲内に取り込んでしまうことになる。警察が、被告人が盗んだ時計を田中の道の真ん中に捨てたという話を本気に聞いたというなら、つとまじめに茶畑沿いの道路や茶株付近をもっと広範囲に捜索したはずである。飯野証人は、当公判廷では意識的にウソを述べたと言わざるを得ないのである。

弁護人が法廷外で開示を受けた検察官手持の証拠書類の中に、飯野、増野、両警察官の捜査報告書がある。それによると六月二十九日、問題の茶畑周辺の民家をしらみ潰しに聞込んだことになっている。しかし何故か時計の「発見者」小川松五郎宅は「現場」のすぐ近くであったにも拘らず、その聞込みから除外されている。

現在、当時の捜査当局が、何らかの別の機会に、しかも被告人が時計を捨てた場所の地図を書いたり、小川老人によって「発見」されたりする以前に、すでに時計を入手していたと疑うに足る十分の根拠があるのである。そうだとすれば、飯野証人らによる時計の捜索や「現場」付近の聞込みは、時計の捜索発見とは全く別の目的に基づいて成されたことになるのである。

すなわち、当時警察が「現場」を捜索したり、付近の聞込みをした形跡をつくり、そしてその結果、未だ発見出来ないでいるという雰囲気をつくり出しておくことである。こういう状況、雰囲気のなかに、七月二日小川老人が、散歩の途上、茶株の朽葉の混じった土に埋もれ尾錠だけのぞかせていた時計を「発見」したという筋書きがおかれるのである。

時計の「発見経過」を巡り、当裁判所は、さらに真相究明の努力を惜しむべきではないと信ずる。

*以上で〈 時計 〉の引用を終える。次回は〈 万年筆 〉へ進む。

被害者の腕時計発見現場。被告人の自白では道の中央(○印)に捨てたとなっているが、実際には右側の茶垣(写真右端中央・ト印)から見つかっている。しかも捨てたという時期から五十日も経ってからだ。さらに、この付近は警察が二日がかりで腕時計を捜索していたのである。極め付けは、警察が捜していたのは、当局発表の特別重要品触記載、シチズン・コニーであるが、発見されたのはシチズン・ペットであった・・・。

(写真二点は “ 無実の獄25年・狭山事件写真集=部落解放同盟中央本部中央狭山闘争本部・編、解放出版社 ” より引用)