アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 503

【公判調書1619丁〜】

三つの「証拠物」                                              宇津泰親

〈 万年筆 〉

一、六月二十四日付青木調書に、「万年筆は風呂場の敷居の上に今でも隠してあるから善枝さんの家に返してくれ」という記載がある。そして六月二十六日の、いわゆる第三次家宅捜索によって、被告人宅の勝手口の鴨居から、被害品とされる万年筆が「発見」されたということにされている。なるほど、この「発見」の経過が真実であるとすれば、この万年筆の発見が有罪のキメ手の一つにされたということには、あながち無理からぬものを感ずる。しかし、当審の被告人質問の結果にみられるように、被告人の虚偽の自白は、長谷部、関ら数名の取調官が、被告人を取調官に迎合させ、積極的に虚偽の事実関係を自供する他ない境地に陥れることによって産み出されたのである。そして被告人のおびただしい数に上る自供調書も、取調官が右のようにして引き出した虚偽の自白を書き留めている代物でしかないのである。前記の六月二十四日付青木調書を含めて、警察、検察による被告人の自供調書の作成経過、添付図面等の作成経過、その図面等の調書への添付経過そのものには重大な疑惑がある。この事実は、すでに一部分触れているし、他の弁護人によっても詳しく指摘されるから、ここでは再論しない。

二、万年筆の問題について、当裁判所に最も注意を促したい点は、被告人宅の捜索経過である。被告人宅は、三度捜索を受けている。

いわゆる第一次捜索は、五月二十三日付小島朝政作成の捜索差押調書、同人の当審第十三回公判証言によると、決して広いとはいえない被告人宅を徹底的に捜索したという他はないであろう。捜査官は、小島朝政外十一名が投入され、午前四時四十五分から七時二分まで二時間余りの時間を費やしている。

捜索は、まず居宅の外周りを行ない、その後居宅内に移行するにあたり、玄関、東側二室、勝手場、風呂場と西側の二室とを区分し、東側部分の捜索から始めている。右捜索差押調書の記載によれば、各居室内、勝手場、風呂場は勿論、居室と風呂場、勝手場に通ずる板の間も捜索場所の範囲内であることが明らかであり、さらに便所、天井裏も捜索したと明記している。このやり方は、家宅捜索というものの定石を守って、十二名の捜査官が二時間以上かかって徹底的に捜索を実施したことを示して余り有るものであろう。そして問題の勝手口の鴨居は、前記の風呂場、勝手場、それらと居室を結ぶ板の間を捜索した際、まさに目の高さに位置しており、しかも鴨居という、何か小さな物を置いたり、隠したりする至極ありふれた個所を、十二名の捜査官の誰一人も捜索しなかったなどという想定は、とても無理な話である。

当審の前記小島朝政証言には、「五月の二十三日の第一回の捜索の時は、屋根裏を捜索したように今記憶していませんが」とか、弁護人の「鴨居とか梁とか、そういう部分はどうですか」という問に対し、「その点もやっておらないと思います」という部分があるが、右証言には強度の作為が窺えるのである。第一次捜索の目的は、捜索差押調書の記載上では「ノート、筆記用具、作業衣、本件に関係あると認められるもの」となってはいるが、当時、被告人は別件逮捕され、実質的に中田善枝強殺容疑で取調べられている。捜査当局は、被害品が何であるかはすでに掴んでいる時点である。

以上述べた諸状況下にあっては、第一次家宅捜索は、全面的かつ徹底的に行われ、問題の鴨居も当然捜索の対象となったと考えるのが自然である。

鴨居は探したが、万年筆はなかった。

真実はそうであったと弁護人は考えざるを得ない。客観的状況がそれを物語っているからである。

*次回、“〈 万年筆 〉三” の引用へ続く。

写真は手持ちの狭山事件裁判資料より。家宅捜索時の記録写真を見る限り、その捜索の徹底ぶりは文句の付けようがない。それ故に、なぜ三回目の家宅捜索で万年筆が発見されるに至ったのか、推測は慎むべきであるが、やはり万年筆発見の背景には関源三巡査部長の黒い行動が関係していたと見てもあながち間違いはないであろう。