アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 501

【公判調書1615丁〜】

三つの「証拠物」                                              宇津泰親

〈 時計 〉

一、自供調書によれば、六月二十四日付青木調書に、初めて時計の形状についての供述がなされ、時計の図面が添付され、さらにその時計は、狭山市田中辺りで捨てたという供述とその地図が添付されている。時計は、小川松五郎という当時七十八才の老人によって七月二日午前十一時頃、茶畑に沿った道傍の茶の根株のところから発見されたとされている。

しかし被告人は当公判廷において、自分が警察から時計について調べられ、時計を捨てた場所を考えて地図を書いたのは、六月二十四日ではなく六月二十七日頃だと言っている。もしこれが真実だとすれば、前記青木調書の作成経過は、甚だ疑問であると言わなければならない。弁護人は、被告人の当公判廷の供述の方が真実を語っていると確信している。数年前のある日時を記憶によって何日と特定することは必ずしも容易なことではない。しかし、その日時にまつわる特異な事情を経験している場合、その経験事実をもとに、人はかなり正確に日時ないし時期を特定出来るのが普通である。

したがって、被告人が取調官の前で時計を捨てた場所なるものを考えて地図を書いたという時期が、被告人の主張する時期であると信用して良いかどうかは、その主張の根拠となっている事情は何か、その事情が、客観的事実と合致するかによるであろう。被告人は当審第二十六回公判において、時計を捨てたという地図を書いた日について、次のような特異な経験事実をもって裏付けている。

「その地図を書いた日は雨が随分降ってきました。雨は夕方からだと思います。雷がものすごくなってきて、手錠をかけていたものだから、それを外してやろうかと言って片方を外してくれました。片方は書き物をするのでいつも外していて、いつも片方しかかけてなかったのですが、それを外してくれたわけです。それからいつも調べているところが雨が漏るので、弁護士さんと面会するところへ移ったのを記憶しています」と言っている。

強い雷雨。これはかなり特殊な、印象に残りやすい事実である。六月二十日以降七月二日までを取ってみて、そういう、午後になって強い雨と強い雷電があったのは何日だろうか。弁護人が証拠として提出した熊谷地方気象台川越観測所の観測結果によれば、こうである。

七月二十九日と三十日( 調書原文で七月と記述されている以上、その通り引用するが、これは六月が正しい。この観測結果の後に続く文章を確認すると、それは明らかである=筆者 ) の両日だけが、午後になって強い雷雨があったとしている。航空自衛隊入間基地司令中村雅郎の照会回答書を見ても、基地付近もほぼ同様の結果を示している。とくに二十九日の雨量は最も多いのである。一日降水量は、川越で三十三ミリ、入間基地では二十八.八ミリを示した。ただ三十日の午後の雨量は二十九日に比較し、ずっと少なくなっている。

おそらく、被告人が田中の方に時計を捨てたといってその地図を書いたという日は、六月二十九日夕刻を指していると思われる。しかし、それとおぼしき地図は六月二十四日付の青木調書に添付されていることは明らかである。しかもその地図は、時計を捨てた場所は狭山市田中辺りに夜捨てに行ったと言って供述した際、その場で書かせて差し出させ、調書に添付した形である(記録二.〇七五丁)。ところが驚いたことには、その地図に書込まれた日付をみると、なんと六月二十九日となっているではないか。被告人の当公判廷の供述によって、それでなくとも六月二十四日付青木調書の作成経過には重大な疑惑が投じられた。さらに問題の調書に添付した図面の日付が六月二十九日となっている事実を直視するならば、被告人の当公判廷の供述の真実性は極めて強いといわなければならない。そしてこの事実はとりもなおさず六月二十四日付青木調書の作成経過および供述内容の信用性を、根底から崩壊させるものである。この青木調書は、明らかにねつ造したものである。

さらに被告人は、その時計の地図を書いた翌日、取調官から、善枝さんの時計だといって女物の時計を見せられ、自分の腕にはめてみたというのである。そうであってみれば、時計の「発見された」という七月二日以前に、被告人が時計の形状について説明をし、且つその時計図を書くことには何の困難も感じなかったであろう。たとえその時計の絵図面に六月二十四日という日付が記入されているからといって、前述の重大な疑惑を打ち消すことはできないのである。

弁護人は控訴趣意書において、六月二十四日、時計が田中の辺りに捨てられたという自供と地図まで入手しておりながら、直ちに捜索発見する努力をせず、五日後の六月二十九日になって捜査したというのは、被害品の時計がいつどこで発見されるか新聞の注目の的であり、また、捜査当局の関心も強かったはずの状況下では、まことに疑問であると指摘している。しかし六月二十九日頃警察が被告人に時計の地図を書かせたとすると、その空白の点の疑問は一応は解消されるであろう。しかし、警察・検察の、時計についての自供経過、時計の発見経過を巡る筋書きは、ますます疑惑を深めるばかりである。

*以上〈時計〉一、の引用を終える。ここで、次回は二、の引用と思いきや、その二が見当たらないのである。穴の開くほど調書を確認するが、二、は存在せず三が待ち受けている。ということで次回は三、の引用となる。

右上に六月二十四日の日付が確認出来る、被告人による時計の図面。

図面は、実際には強い雷雨のあった六月二十九日に書かれたが、日付は二十四日である。しかし同じ二十四日に書かれた、時計を捨てた図面の日付は二十九日である、という解釈で良いだろうか。日常生活において当日の日付を記入するという場合、一般人でも、これは割と神経を使い、間違いの無いよう注意を払うと思われるが、まして公務員が携わる職務であろうなら日付の記載は正確でなければならない。そして何よりもこの様な物が自白調書として扱われ、その不備は問われず、被告人有罪の証拠としてまかり通っているのだ・・・・・。こんなところにも狭山裁判の綻びが垣間見え、闇深さを感じる。