アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 158

(前回より続き) 「偽作とか文書偽造が歴史に華々しく登場するのも、ちょうどこの時期である。BC一世紀頃のローマは、共和制が崩壊し始め、野心的な武将が悪い知恵を巡らし、陰謀を凝らしていた時代である。シーザー(Caesar)の暗殺されたのはBC四四年であるが、シーザーの腹心であったアントニウス(Antonius)はその遺言状と国庫金を手中に収め、シーザーの暗殺者たちを次々に虐殺して、ついに第二・三頭政治オクタビアヌス(Octavianus)(後のアウグスツス)およびレピドス(Lepidus)と共に行なった。アントニウスは後にクレオパトラ(Cleopatra)におぼれ、ついに自殺するが、公文書や土地、財産の権利書などの偽造や偽筆などの名人であって、それによって膨大な富や権力を得たという。アントニウスが手に入れたというシーザーの遺言書なども、真偽のほどは神だけが知るというものである。当時の唯一の理想主義的な政治家で名文家であったキケロ(Cicero)も、アントニウスの陰謀にたまりかねて、有名な雄弁をもってアントニウスを糾弾している。が、その中にアントニウスキケロの手紙を偽造したことについて次の言葉を残している。『私が書いたという手紙をもとにして、あなたは私を非難し、告発しようとしておられるが、もし私がこのような手紙を書いたことは金輪際ないと申し上げたら、あなたは何を証拠に私が書いたと強弁なさるでしょうか。あなたの得意な筆跡鑑定でしょうか』中立的な立場にあったキケロも、このような事情からついに自殺するハメに追い込まれてしまった。コロセニウムやティツスの凱旋門を名君の誉れの高かったローマの皇帝ティツス(Titus)(三九〜八一年)は自他とも許す文書偽造・偽筆の大家であった。当時の貴族は文書の偽造や偽筆といったことを“たいして”とは思っていなかったようである」(続く)                                                                                

f:id:alcoholicman:20220224080435j:plain