アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 193

(四)フランスの続き「フランスでの、筆蹟鑑定のための裁判の最近の例は、十九世紀から今世紀にかけてのドレフュス事件である。『チボー家の人々』を書いたマルタン・デュガールの小説『ジャン・バロワ』の第二部に、史実に沿っての詳しい記述がある。また、ピエール・ミケル著、渡辺一民訳の『ドレフュス事件』(クセジュ文庫)等、多くの著者に詳しく述べられている。当時、パリ駐在のドイツ大使館から出る紙屑類は、全部フランス側に渡って整理されていたそうである。その紙屑の中から、ドイツ側にフランスの軍事機密を送ったという明細書らしいものが四つに裂かれてあるのを、フランス側のアンリ中佐が発見するという事件が起こった。その筆蹟が参謀本部の見習士官であるユダヤ人のドレフュス大尉のものに似ているという事で、ドレフュス大尉が参謀本部に呼び出された。そこで口述書記をさせられ筆蹟が似ているというので直ちに逮捕された。改めて筆蹟鑑定した者は三人で、フランス銀行専属の鑑定人ゴベールは、含みのあるどっちつかずの鑑定をし、警察庁の、犯罪人人体測定課長ベルティオンはドレフュスの筆蹟であると断定し、もう一人はドレフュスの筆蹟でないとした(後に、更に鑑定人が増やされて全部で五人としたが、その中三人はドレフュスの筆蹟であると断定した)。この段階では、軍事法廷では証拠不十分だとして釈放するつもりであったが某将軍が弁護人も入れない非公開の法廷でドレフュスに不利な証拠を見せたため、ドレフュスは官を辞めさせられ終身流刑となった。ドレフュスの実兄や詩人のラザールが、冷たい世間の目に屈せずドレフュスの無実を訴え、また参謀本部の内部からも裁判自体が公正でなかったという声が起こり、明細書そのものの出所についても疑問が持たれ始め、文豪ゾラを始めとして多くの知識人がユダヤ人弾圧の陰謀であるとして非難した。評論家で第一次大戦時に仏首相であったクレマンソーが『知識人』なる言葉を初めて使ったのもこの時のことである。ゾラは『予は弾劾す』という公開状を発表し、このため誹謗罪に問われ、クレマンソーががその弁護に当たったりもした。フランスの全社会はドレフューザルと非ドレフューザルに分かれて論争し、国際的な問題にまで発展しかねない勢いであった。結局真犯人は、文書を偽筆で作成したのがエステラージ少佐であり、事件を企んだ一人は明細書を持って来たアンリ中佐であることが判明したのであるが、軍部の圧力でドレフュスの無実であることは明らかであるにも関わらず、法廷は情状酌量するもなお有罪として十年の禁錮を言い渡し、これを大統領が特赦する形をとった。全く無実となり復官したのは一九〇六年のことで、実に十年以上を経過した後である」(引用は続く)                                                                                      

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( 右は芋焼酎、薩摩富士である。原料は紅さつまと米麹だ。左は赤霧島。原料は紫芋〈紫優〉、米麹、霧島連山の地下水〈霧島裂罅水〉である。本日は両芋焼酎を3:3、これに沸かした天然水を4入れ攪拌、馴染むまで3分待ち味わってみた。結果は一言『絶品』である。いきなり私の欲するブレンド割合に到達したようであるが、いや、油断は禁物である。さらなる追求を続けなければなるまい)