アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 237

事実取調請求書・請求する証拠の番号=12。                  請求された証拠は【昭和三十八年五月七日付毎日新聞朝刊・「自殺した元作男」という見出しのある記事】        その記事の内容は、【五月六日夜、中刑事部長が「玄二さんの血液型はB型で、被害者の遺体から検出した血液型と同じである。筆跡と脅迫状の筆跡は、似ている点と似ていない点があり、まだ断言出来ない」と発表した】である。この記事が証拠請求された理由は[ 請求する証拠の番号=9 のG.1] にある【証人・長谷部梅吉は、第八回公判において「奥富玄二が本件と関係があるのではないかという疑は持っておらず、必要がないから調べなかった」】旨供述と矛盾し、したがって証人・長谷部梅吉供述の証明力が減殺されるためである。私が思うに、石川一雄被告人に対し、川越署分室の取調室で「やったといえば十年でだしてやる」と約束(後に否定)した、当時警視の階級であるこの証人は、その輝くバッジとは裏腹に、事件を黒い闇に導く案内人として公判調書に刻み込まれている気がしてならないのであった。                                                                                      

(画像は(無実の獄25年・狭山事件写真集・部落解放同盟中央本部中央狭山闘争本部編・解放出版社より引用)

 

狭山の黒い闇に触れる 236

事実取調請求書・請求する証拠の番号=11。               請求する証拠=「毎日新聞夕刊・昭和三十八年五月六日付」*その新聞記事の見出し=「キメ手  米屋の手ぬぐい」*新聞記事の内容=「被害者を後ろ手に縛っていた布は、五十子貞作方で得意先に配ったものであり、川越団扇会社が作ったこと。奥富孝志君が体育大会の応援に行く途中、沢の自転車屋前で被害者と出会ったというのは確実と見られること。死体発見現場から数百メートル離れた林の中に掘立小屋が発見され中に、草刈鎌と荒縄、エロ雑誌、ヌード写真、自動車運転免許甲法令集、ペン字習字帳、絵本などがあり、鎌と荒縄は本部員が持ち帰ったこと」等の報道記事がある事実を証明するため、毎日新聞夕刊が証拠請求された。また、「証拠物または書証の内容」として『奥富玄二は、被害者中田さん宅で作男をしていたことがあり、事件と関係があるのではないかと本部で調べている』旨の記事がある。私は本日取り上げた「請求する証拠番号=11」を読み、いよいよ挫折のフチに立たされた。それは請求の理由が掴めないからだ。私に理解できたことは二つ。①奥富孝志君が沢の自転車屋前で被害者と出会ったことが証明された場合、警察側が作った物語は崩れ、すなわち石川一雄被告人の無罪が証明されることにつながる。②「被害者宅で作男をしていた男を本部が調べている」という記事が証明された場合、証人・長谷部梅吉供述の証言は証明力が減殺される。以上の二点である。他の記事内容は、何を証明するために請求したのか見当がつかない。私の限界であり、お手上げである。まぁ、こんな日もあるさ。   
 ( 高円寺の古本市にて購入。二冊で350円。昭和の犯罪・冤罪関係が私の守備範囲であるが、最近めっきり少なくなった。蕨市の「なごみ堂」でも相当な冊数を漁りまくったが、ここの店主が高円寺・古本市で仕入れている姿を発見、なぜか心が和んだのであった)

狭山の黒い闇に触れる 235

事実取調請求書・請求する証拠の番号=10。弁護側は、『素人ではない荒縄の結び方、新たな手がかり』という見出しの記事を掲載した新聞を証拠請求している。記事には「竹内狭山署長は、五月七日午前十一時からの記者会見で “ 被害者を縛っていた荒縄や細引は、素人には出来ない特殊な結び方をしている “」「死体発見現場付近の山林三ヶ所から新たに牛乳ビン、コモなど六、七点を発見、指紋その他を調べている」とある。となると、特に竹内狭山署長の発言は石川一雄被告人が公判廷で供述した「手拭いやタオルの結び方は取調べ官から教えられたが、自分の日頃の結び方とは違っていた」旨供述をいみじくも補強しており、よって弁護側が下した、冒頭の見出し記事を掲載した昭和三十八年五月七日付読売新聞夕刊四版十一面を証拠請求した判断は正しい。さらにこの夕刊には、より証拠請求せねばならない重要な情報が載っていた。石川一雄被告人の身が潔白につながるであろう、その記事とは、『科学研で調べていた玄二さんの血液は七日、B IMN型とわかり、被害者の死体から検出した犯人の血液とほぼ一致した』である。当然のことながらこの記事も証拠請求に含まれている。                                               

この写真は、すでにブログにて掲載済みなのだが、再び載せようと思う。左側の猫の表情が私を悲しませるのだ。撮影時、私はエサを用意し器に移していたが、その間、ジッと見つめて来るのであった。たかだか一食のメシに対し、熱い視線を送るこの猫を飼ってやりたいが、低収入ゆえ断念し「ごめんな」と声をかけ、家路についたことを思い出す。

狭山の黒い闇に触れる 234

事実取調請求書・請求する証拠の番号=9。                 ①証人・長谷部梅吉は第八回公判において「奥富玄二が本件と関係があるのではないかという疑は持っておらず、必要が無いから調べなかった」旨供述している。だが、読売新聞の報道によると「特捜本部は、自殺した奥富玄二が五十子精麦所の手拭いを入手できる立場にあること、筆跡に似た点があること等から “ 疑わしい点が相当ある ” と発表」等の記事があり、矛盾する。そこで弁護側は証人・長谷部梅吉による供述の証明力を滅殺するものとし該当の新聞記事を証拠請求する。 証拠の標目・昭和三十八年五月七日付読売新聞朝刊十四版、十一面「疑惑深まる “自殺した青年” 前後の行動追及、似た筆跡・血液型も一致」という見出しのある記事。                                                                                                                                                           ②証人・諏訪部正司の第十一回公判証言、証人・将田政二の第十二回証言によれば、五月三日朝警察犬を用いた際、石田一義の家の方へ行ったものがあるというのであり、犯人の逃走経路は右の方向であったと認められる。他方、読売新聞の報道によると「捜査線上に残っている容疑者Aは、佐野屋と直線距離にして二百メートル以内に自宅があり、犯人の足跡はAの家の方向に真っ直ぐ向かい、途中で逆戻りして少し引き返した後、左に曲がっている」旨の記事があり、諏訪部・将田、両証人の証言と符号する。したがって弁護側は各供述の証明力を補強する証拠として該当の新聞記事を証拠請求する。証拠の標目・昭和三十八年五月七日付読売新聞朝刊十四版、十一面「別に三人の容疑者、水色シャツの男も」という見出しのある記事。(続く)         

狭山の黒い闇に触れる 233

 事件取調請求書、請求する証拠番号=8は下記の内容となる。【脅迫文の「少時」に該当する人物について、証人・青木一夫の供述と、捜査当局の見解は違っていた事実。第七回公判で証人・青木一夫は「死体発見現場付近の江田ショウジと想定」旨供述し、一方、読売新聞の報道記事によれば、『捜査当局は、脅迫文の「少時」に該当するのは堀兼居住の「増田正治」ではないかと当初考えていた』旨の記事があり、したがって証人・青木一夫の証言は読売新聞の報道記事によって、その証明力を減殺されねばならない。そう考えた弁護側は、読売新聞・昭和三十八年五月五日付朝刊十四版・十一面、「前に別の誘かい計画   あて名 日付 書き直された脅迫状」という見出しの記事を証拠請求した。なお、証拠請求された報道記事には「本部では付近一帯を調べたところ『少時さん』は『正治さん』のあて字で同市堀兼・農・増田正治さん(48)ではないかと見られるに至った」「犯人が営利誘かいを狙ったと思われる増田さん方は中田さん方と同じ中農、子どもは十八才を頭に中学一年の次男(十二)小学校五年の三男(十)同二年の長女(八つ)の四人」等の記載がある】                 今日取り上げた「請求する証拠番号=8」は、公判調書をよく読み込み、自分で文章化してみた。正確な情報の伝達、という意味ではおそらく間違ってはいない筈だが、問題は、それをわかりやすい文章で書けたか、という点にあり、文章を一読して理解出来るかどうかがその答えとなる。と言いつつ何度も読み返した私の文章は落第点であった。                                                  

さて、私は狭山事件を離れ映画鑑賞に浸った。「蘇える金狼」は、原作も映画も大好きである。

狭山の黒い闇に触れる 232

「事実取調請求書」の「請求する証拠の番号」、その6であるが、ここにも不可解な、解明されねばならぬ事柄が記されている。被害者の腕時計は昭和三十八年七月二日に発見されている。だが、それより以前に、すでに石川一雄被告人は腕時計を見せられていたという内容である。石川一雄被告人は昭和三十八年六月二十八日頃、川越署分室で長谷部警視らから被害者の腕時計を見せられたが、その前日、強い雷雨があったと述べている。埼玉県園芸試験場入間川支場長・入子善助の証明書によれば、そのような気象は六月二十九日、又は同月三十日と認められ、したがって石川一雄被告人が腕時計を見せられたのは、発見日とされている七月二日以前である、と弁護側は言うのである。私は昭和三十八年のカレンダーを見てみた。すると該当する日付は七月一日になる。たった一日であるが確かに発見日以前であることは間違いない。しかし、ここで早合点してはならぬのは、警察は被害者の腕時計を捜索するにおいて、被害者の兄・知人と共に時計を購入した店へ赴き同種類の時計を借り出した、という事実があり、となると石川一雄被告人に見せた腕時計は被害者の物なのか、参考品として借りて来た腕時計なのか今ここで判別することは出来ない。この疑問はやがて法廷で明らかになるのか、記憶しておきたい。次に、「請求する証拠の番号」その7であるが、内容は上記の気象状況を補強するための、昭和三十八年八月二十三日付、熊谷気象台証明書が請求されており、「H:証拠物または証書の内容」では、川越地方の六月二十九日・六月三十日における雨および雷電の情報が、降水量のデータを用い証明され「請求される証拠の番号」6の「G」を確固たるものと補っている。                                        
( 写真は “ 無実の獄25年・狭山事件写真集・部落解放同盟中央本部中央狭山闘争本部編・解放出版社 ” より引用 )  

狭山の黒い闇に触れる 231

『4.A:狭山市入間川三丁目  金子金造』『B.昭和三十八年五月一日午後、自宅の八百屋の前を通る被告人を見かけ、互いに言葉を交わした事実』『C.(一)被告人を知っているか。(二)昭和三十八年五月一日午後、自宅の八百屋の前で被告人に会ったことがあるのか。(三)あるとすれば、互いに言葉を交わしたか。(四)その他関連する事項』『D:二十分』                                  『5.A:埼玉県入間市黒須  航空自衛隊中部航空警戒管制団給養小隊  須藤晃』『B.被告人は昭和三十八年五月一日午後五時頃、入間川駅前で残飯をもってくる石田義雄の自動車を見かけたが、それは被告人が石田一義方にいた頃、残飯を取りに行っていた時刻より早かったと述べている。石田一義方で、入間基地の夕食の残飯を取りにゆく時刻が通常より早く繰上げられることがあり、被告人の右供述には信用性がある』『C.(一)証人の現在および昭和三十八年当時の自衛隊における階級、地位、職務の内容。(二)石田一義、石田義雄を知っているか。(三)入間基地における食事時間はどうなっているか。(四)石田一義方で残飯を取りに来る時刻は通常いつ頃か。(五)右の時間関係が、証人方の催促などで繰り上げられることがあるか。(六)その他関連する事項』『D:二十分』………         

石川一雄氏はこの八百屋の友人から「パチンコかい?」とたずねられている。(写真は “無実の獄25年・狭山事件写真集・部落解放同盟中央本部中央狭山闘争本部編・解放出版社より引用)