アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 940

 

(2024年4月13日入間川で撮影。ああ、とても素晴らしい光景だ)

【公判調書2958丁〜】

                       「第五十五回公判調書(供述)」

証人=小島朝政(五十六歳・財団法人埼玉県交通安全協会事務局長)

                                            *

宮沢弁護人=「あなたは捜査本部で、先ほど将田警視からいろいろ下命を受けて仕事をしたということですが、あなたの上司というか、捜査関係で上司になるのは将田警視なのですか」

証人=「そうですね、まあ直接はそうなりましょうね」

宮沢弁護人=「すると、捜査本部の捜査における会議には、あなたは、意見をはさんだりしていたのでしょう」

証人=「ええ、やっておりました」

宮沢弁護人=「本来詰めている所は捜査本部へ詰めて、そこで下命を受けて動くと、そういうことだったんですね」

証人=「そうです」

宮沢弁護人=「すると、捜査の大体の進展の状況は、あなたは分かっておったんじゃないですか」

証人=「進展の状況ですか」

宮沢弁護人=「常に今どういう風になっているか分かっておったんじゃないですか」

証人=「いや、どんな話が出たか、初めの過程を知らない者が、途中でぽつり話を聞いても分からないんですよ。三回四回聞いて、これはこういう筋から出てきた捜査だなということが分かるわけです」

宮沢弁護人=「五月一日に事件が発生したと、あなたは、それからすぐ四十五日で行っているわけでしょう(原文ママ)」

証人=「はい」

宮沢弁護人=「それからずっと捜査本部にいるとすれば、あなたは捜査一課の現職の警察官なんで、そのくらいのことは分かっていたんじゃないですか」

証人=「ですから、現場も知らない、被害者の家も知らない者が聞いたって分かるはずはないです。ですから、数日間はフリーで、方々現場を見たりなんかして十日頃でしょうね」

宮沢弁護人=「あなたは、書類をご覧になっているということですが、大体捜査本部にいてその十日間ぐらいは、いろんな上がってきた報告書とか調書とか、そういうものをご覧になっていたわけですね」

証人=「いや、十日は見ないですよ、ですからたとえば今先生が仰ったように、六日に奥富玄二さんが亡くなったとすれば、その頃行ったとして、それから数日間は現場を見たりなんかした、こういうことになりますね。その後私が来たんで、捜査員の編成変えをした時に本格的に一つの部署をもらって捜査をやるということになったんで、それまでは、私は実際は実のある仕事は何もしなかったわけです」

宮沢弁護人=「捜査のやり方として、現地の第一線の捜査に行ってる警察官は、必ず捜査報告書を出すという方式はとられてたんでしょう」

証人=「必ずということですが、それは後日記録にしておく必要があるということ、あるいは、後日でなくても捜査員の見たこと聞いたことは直接、刑事部長なり上級幹部が覚えておかなければならないという問題について書類にするんであって、それは捜査の行なわれた形でありまして、全部が全部、これを記録にしておいたら、大変なものになりますから」

宮沢弁護人=「あなたは時計の捜査をされたというんですが、その際、あなたの部下に十名近い人がおられたというご証言ですが、その人たちは時計の捜査について、それぞれ捜査報告書をあげてるんではないですか」

証人=「ありますかどうかね、その辺のところはちょっと今記憶がありませんですが」

宮沢弁護人=「見た覚えないですか」

証人=「ありましょうかね、ちょっと・・・・・・」

宮沢弁護人=「ここへ出たあなたの部下の警察官は全部あげているということを言ってるんですが」

証人=「それでは多分あるでしょう」

宮沢弁護人=「あなたは、五月の初めの頃は、特に仕事がなかったというんですが、田中登という男が死んだということは聞いておりませんか」

証人=「田中登・・・・・・・・・」

宮沢弁護人=「ええ」

証人=「ただ田中登と言われてもちょっと思い出せませんが」

宮沢弁護人=「要するにこの犯人を目撃したという風に言われている人なんですが」

証人=「田中登ね、・・・・・・ちょっと今記憶がございませんですが」

宮沢弁護人=「これは、五月の十二日に亡くなっているんですが」

証人=「そうですか、ちょっと記憶がございません」

宮沢弁護人=「それに関連してもう一つ聞きますが、この人は捜査本部でもって、捜査本部の取調べを受けていたということをあなたは聞いておりませんか」

証人=「そう聞いておりませんです。何かヒントでもあれば、あるいは思い出すかも分からないけれども、ただ田中登が見た、その人が亡くなったというのは、ちょっと今思い出せませんです」

                                                                (以上  佐藤治子)

昭和四十六年十二月六日      東京高等裁判所第四刑事部

                   裁判所速記官  沢田伶子  佐藤房未  佐藤治子

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○引用文中にある宮沢証人の発問の中で、五月一日に事件が発生し、証人がそれからすぐ四十五日で行っているわけだろう、という趣旨の問があるが、この"四十五日で行っている"という意味が老生には分からない。この部分は一体何を指しているのか、一応、念のため記憶に留めておこう。

                                            *

ところで宮沢弁護人の尋問に田中 登という名が見受けられるが、この人物に関する情報は次のとおり。

狭山市柏原新田で農業を営んでいた田中氏は昭和三十八年五月一日、つまり狭山事件が発生した日と同日に、石供養(先祖の墓をたてた供養)のため同市内の堀兼の親戚を訪れていた。夕方、用事を済ませた田中氏は自転車で自宅へ向かうのだが、この時通った道は「やげん坂」という道路であった。ここを通過中、腹具合が悪かった田中氏は便意をもよおし付近の山林の奥へ向かった。用を足し終え立ち上がったところ、二、三人の男が近くを通り過ぎるのを目撃した(一説では近くにジープが止めてあったとも)。

数日後、新聞、テレビ等による大々的な事件の報道を見、田中氏は一日の夕方に堀兼の山林で目撃した男たちを思い出し、念のためこの情報を警察へ知らせることにした。なお、この通報をするという判断に至る過程で、田中氏の妻や兄は「万が一、何でもなかった場合はむしろ大変なことになる」と忠告するも、彼はそれを振り切り、懸命に犯人捜査へと努める警察への協力になればと、堀兼に設けられた特別捜査本部に向かった。

意に反し、日にちは定かではないが(裁判上、この時の田中氏に関する事情聴取等の証拠類は一切確認されていない)、堀兼の特別捜査本部から帰宅した田中氏は、何故か恐怖と屈辱に満ちた風体となっており、さらに翌日、再度警察からの呼び出しを受け自転車で向かうも、事情聴取後、田中氏は病人さながらに自転車のペダルすら漕げず警察車両に乗せられ帰宅した。

「警察は怖いところだ」「自分は犯人ではない」「自分は何もしてないのに責められた」衰弱し切った田中氏は家人にそう告げ寝込んだという。

五月十一日午後八時過ぎ、家族との夕食後、田中氏は自宅居間で鳥さき包丁で心臓を刺し自殺を遂げる。

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以上が、私が知り得る田中 登氏の情報である。

五月一日のやげん坂(=薬研坂・注:1)での不審者目撃から、後日警察への通報を経て五月十一日に自殺を遂げるまでの間、彼が何を感じ、何を考えていたかを知りたいが、もはやそれは不可能であり残念この上ない。

結局、彼は自殺として処理されているようであるが、その原因、過程を見た場合、上述の通り、やげん坂(薬研坂)での不審者目撃、及びその通報が起因となっており、またしてもと言ったら語弊があるが、彼は本事件発生とそれに伴う捜査当局の高圧的対応によって命を散らせるに至ったと考えられ、では特別捜査本部では彼に対しどういった対応を取ったかと、やはり、またしてもここに黒い闇が漂うことを感じ、老生は一杯やりつつ途方に暮れた

(注:1)狭山市薬研坂薬研坂の薬研とは、漢方薬を作るとき、薬種などを粉に砕く器具のことで、V字形にくぼんでいることから薬研堀ともいわれ、坂道がV字形に掘られていたことから、この名がついたといわれる。