アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 897

【公判調書2792丁〜】

                   「第五十三回公判調書(供述)」

証人=関 源三(五十五歳・飯能警察署勤務、警部補)

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山梨検事=「(このとき検察官は、証人持参の封書十四通、葉書三通計十七通の、被告人より証人に宛てた書簡を、裁判長の許可を得て、弁護人に閲覧のうえ証人に示し、以下尋問した)四十五年四月五日消印、四月四日付葉書によると、『又弁護士や、父に言われたので、今日迄筆をとらず、かつ、自分としては黙っておれなかったので以前この旨を関さんにお知らせしたことがありましたが、もし私の願いを叶えて頂けるものでしたら、一度面会に来て頂きたいのですがうんぬん』とあるんですが、以前この旨を関さんにお知らせしたことがあるという手紙は、いつ頃来たのですか」

証人=「四十一年頃じゃないかと思います」

山梨検事=「前回の証言で関に会うと、父が面会に行ってやらないということを言ったという手紙が来たと証言してるんですがそれが、その手紙にあたるわけでしょうか」

証人=「はい」

山梨検事=「今の葉書の表に『四、一〇頃返事出ず』とありますが、これはあなたが書いたのですか」

証人=「私が書いたんです」

山梨検事=「要するに返事を出していないというメモをあなたが書いたんですか」

証人=「出したんです」

山梨検事=「返事は出したんですか」

証人=「はい」

                                            *

裁判長=「『出ず』と見えるが、出したという趣旨ですか」

証人=「はい」

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山梨検事=「次に、四十年七月十九日消印、七月十八日付葉書によると、『日記帳を宅下(たくさげ)したのです。そしたらそれを中田先生の所へ持って行ったらしく、中田先生から手紙が来て、関さんとは絶対会ってはいけないと書いてあったのです。しかし私は、そんな事など構わないでいましたら、一昨日父が来て話すには、弁護士さんに言われたと思うが、関さんと会ってはいけない、もし隠れて会ったのがわかれば面会に来てやらないと言われたのです。私も日記帳に書き入れなければ良かったのにと今では地団駄してます。しかし後の祭りですね。又私としては、関さんと会って、川越にいた頃の事をお話ししたいのですが、そんなわけで私の気持をお察し下さい』こういう風に書いてありますね」

証人=「・・・・・・・・・・・・」

                                            *

裁判長=「そういうことが書いてあることは認めるわけですか」

証人=「はい」

裁判長=「それは被告人から来たものとあなたは思ってるわけだね」

証人=「はい」

裁判長=「さっきの検察官の問で、今でも被告人が好意を持ってると、好意とは言わないが、慕ってると。まあ、人の心だからどうか分からないがということだが、で、今の葉書に書いてあったものはそういう趣旨だと、こういうことですね」

証人=「はい」

                                            *

山梨検事=「その手紙類は、いつからいつまでのものでしょうか。被告人が拘置所に移監されてからですか」

証人=「そうです」

山梨検事=「浦和拘置所、東京拘置所からあなたの所へ出されたものとみていいですね」

証人=「はい」

山梨検事=「年度別に言うとどうですか」

証人=「三十八年が七通、三十九年が五通、四十年が四通、四十五年が一通です」

山梨検事=「それで、今の葉書の文面にあるように家族の者が被告人を証人に会わせまいとしていると、家族の人は関のことを良く言ってないと、しかし自分はそうは思わないんだという趣旨のことを書いてある手紙がございますか」

証人=「どの手紙かよく分かりませんが」

山梨検事=「あなたの方で、捜査一課から写しをもらってるので時間の経済(原文ママ)から言いますが、三十八年十二月三日の消印で、十一月三十日付の封書、これ、被告人から来たものに間違いないですね」

証人=「はい」

山梨検事=「その手紙の一枚目の終わりの方に『先日、母が面会に来て、関さんのことを良く言っておりませんでしたので私は、関さんは警察として私を調べただけで、何も関さんが悪いのではないと言ってやりましたが、どうか関さん気分を悪くしないで下さい。私は関さんには川越にいるときや浦和に来てまでも、親身も及ばぬお世話になっていることを涙の出る程うれしく思っております。それでも関さんを恨む家の者は、もってのほかです』という記載ですね。それから、四十年六月二十三日の消印で四十年六月二十二日付の封書ですが、証人が引越しをしたことに関連してるんですが、『日髙町に疎開されたそうですが、私の家の者が何か関さんを悪く言ったので、居づらくなって移られたのですか、そうでなければ長年住み着いた所を離れるわけがありませんね、もし父、兄がそんな事を言ってたのなら私は残念でなりません。だって関さんに話したのは、関さんから言われたのでなく、私から話したのですもの今度父が面会に来たら、それとなく聞いてみて連絡します』となってますね。それから、その手紙の一枚目の後ろのところに、富造、六造と書いてありますが、この筆跡は誰のものですか」

証人=「私が書いたんです」

山梨検事=「何か意味があって書いたのですか」

証人=「別に意味はないんですが、お父さんと兄さんの名前です」

(続く)

                                            *

○石川被告と関とが、この事件以前から知り合っていたことについて、石川被告は次のように述べている。

「私が生まれ、育ってまいりました生家は、その頃『特殊部落』といわれ、〈注・以前は『上新田のカアダンボ』(坂上・即ち菅原四丁目という意味)と称せられて、牛馬の肉や皮革などの採取、加工を職業としたものの部落〉一般家庭とは何かと区別、差別され、疎外される状態の中にありました。大人たちは、ある種の諦めにも似た思いに、それらを甘受する生活に慣れ、自らの殻のなかに閉じこもる生活状態にありました。子どもたちは、差別され、疎外されているいわれすら理解できず、大人たちの卑屈さをそのまま見習ってしまう環境にありました。

そんな中にあって、その環境の不自然さを自覚し、新しい社会に適応してゆくべき一つの運動が青年たちの間に起こったのです。子どもたちの心を少しでも健やかに育てなくてはいけないと、私たちの部落のあった菅原四丁目(現在の富士見一丁目と、祇園二丁目)の中で、小学校三年生から中学校三年生までの子どもたちを集めて野球のチームをつくり、野球のルールを学び、プレーをし、チーム・ワークを学び、その中から社会生活へ適応してゆく精神を教えようとしたのでした。それは昭和三十一年頃からのことでありました。当時、私は青年団の人たちが野球を教えることを手伝いたく、ただ野球ができるという喜びだけで子どもたちと一緒になってプレーをしていました。

その頃、私たちの青年団の主旨に共鳴して初めて関 源三さんが参加しだしたのでした。関さんは野球がとても詳しく、私たち青年団の先頭になって常に積極的に指導の役目を引受けてくれるのでした。日曜ごとに出向いてきてくれる関さんを青年団の中から三、四人が応援し、手助けをし、入間川や入曾の小学校の校庭を一日中貸してもらっては練習に練習を重ね、子どもたちとともにそれは実に楽しい思い出でありました。学校の校庭が借りられないときは、野球のグランドを所有している会社などにお願いしてまでも、日曜ごとの練習と関さんの指導は続いたのでした。

そして関さんを通して、私たち青年団が指導した技術がどの程度進歩したかを知るために、毎年五回から六回くらい、四丁目の子どもたちを集め、それを六チームくらいに分けて野球大会を行なうのでした。普段の日曜の指導と練習のときには別に何も出ませんが、この五、六回の大会が行なわれるときは、菅原四丁目でよく買いにゆく商店などから石けん、タオル、ノート、鉛筆などの賞品が試合の勝負にかかわらずたくさん出されるので、子どもたちも真剣に一生懸命にプレーをするのでした。私たち青年団も、子どもたちだけで六チームはどうしても人数が足らなくなりますので一緒にゲームをするようになり、関さんはそんなときは必ず審判を務めてくれるのでした。

こうして私は関さんとの野球を通しての交流が、事件発生当時まで続けられたのでありますが、野球以外では二人だけの付合いがあったわけではなく、特別、関さんと親しくしていたのでもありません。私と関さんとは野球という団体スポーツの中でのみ仲間であり、そのスポーツを通して良き指導者としての関さんを尊敬もし、親しみも覚えていたのです。関さんの家は私の家から二百メートルほどしか離れていませんが、大会があるときの審判をお願いにうかがったとき以外は遊びに行ったことすらないような状態でありました。ですから野球のあるときのグランド内だけの付合いだけだったということになります」(狭山差別裁判第三版=部落解放同盟中央本部編より引用)

このように、少年野球という分野において石川被告の信頼を得ていた関 源三巡査部長は、長谷部梅吉による地獄の取調べが終わろうとする頃、入れ替わりに取調室にあらわれ石川被告の身を案じるのである。そして鞄や教科書の捨てた場所を吐かせ、再び消えてゆき、堀兼の捜査本部で飯炊きなどに勤しむのであった。