この証人の答弁は聞けば聞くほど、いや、読めば読むほど疑心暗鬼にとらわれる。それは、何やら揚げ足を取られぬよう自己制御を働かせた返答に終始している様子が窺われるからである。それがどの問答を指すかここでは触れぬが、「記憶がはっきりしません」との答弁を繰り返すわりに、本件に無害な質問には詳細に答えるというその姿勢は、自ずと尋問内容を選別し返答する姿に露呈している。
【公判調書1938丁〜】
「第四十回公判調書(供述)」③
証人=河本仁之(三十七歳・弁護士。事件当時、浦和地検検察官)
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橋本弁護人=「先程、第一次逮捕の際の恐喝未遂、これは善枝さん殺しに関係があるわけですが、これに関する疎明資料にどういうものがあるか知らないという風にいいましたが、検察官がどういう手持ち証拠があるのかを知らずして被告人の取調べができるものでしょうか」
証人=「私が関与したのが五月二十三日の第一次逮捕ののちだものですから、そのへんに深く関与しなかったからだと思います」
橋本弁護人=「逮捕の時点ではあなたは知らなかったかも知れないけれども、あなたが捜査に関与し、しかも被告人を自ら取調べるという段階に至れば、捜査当局がどこまで証拠を握ったのか、また、握っていないのかということは十分わかっているのではありませんか」
証人=「そうかも知れませんが、私は第一次逮捕の疎明資料がどういうものであったか記憶ないというよりは知らないです」
橋本弁護人=「あなたが被告人を直接調べたときの調書に六月十一日付というのがありますが、記憶ありますか」
証人=「六月十一日というと第一次逮捕勾留の満期近くと思いますが、その頃はおそらく被告人を調べていただろうと記憶します」
橋本弁護人=「その時点で、あなたとしては被告人を有罪、黒とするための証拠資料がどのくらい収集されていたかということを知りませんでしたか」
証人=「そうですね、知りませんですね」
橋本弁護人=「そうすると、被告人に対してどういう観点から質問するかということがわからないのではありませんか」
証人=「少なくとも逮捕、勾留事実は分かっておりますからそれに基づいて事情を聞いたのだろうと思います」
橋本弁護人=「あなたが知らないというのは、捜査の首脳部があなたに教えない、つまりあなたに対しても秘密にしていたということなのですか」
証人=「そんなことはないでしょうね」
橋本弁護人=「すると、あなたの方で今までにどういう資料が集まっているかを調べなかったということですか」
証人=「今から考えると、鈴木次席検事あるいは原検事から大体どういう証拠関係であるとか、どういう事実関係が推認されるというその辺のところを聞いていたのではないかと思います。具体的な疎明資料がどういうものであったかは私は存じませんと言うほかありません」
橋本弁護人=「あなたが被告人を直接調べるまでに、あなたの上司から聞き知っていた事実というのはどういう事実なのですか」
証人=「恐喝未遂の関係で犯人の行なった一連の事実行為があるわけですが、それについて一応聞いたと思います」
橋本弁護人=「私が尋ねているのは、その恐喝未遂事件に被告人が関与しているとされる証拠として、どういうものがあるかについて、どういう風に聞いていたか、ということです」
証人=「証拠関係のことははっきり記憶がありません」
橋本弁護人=「今までこの法廷で証言した警察官、検事を含む捜査員は、たとえば脅迫状の筆跡と石川被告人の筆跡が同一のものだということが分かっていた、という意味のことを述べていますが、そういうことも知らなかったのですか」
証人=「そう言われればそういうことは確かに聞いていたと思います」
橋本弁護人=「あなたとしては第一次逮捕、勾留の満期直前の時点で、被告人に対してどういう考えを持っていたのですか。つまり、これは有罪である、証拠があるんだという考えで取調べに臨んだのですか、それとも白であるという考えでしたか、あるいはそれ以外の考えでしたか」
証人=「白か黒か分からないから黒白をはっきりさせるというつもりで調べたと思います」
橋本弁護人=「あなたとしては、第一次逮捕の際、被告人を逮捕するに足る疎明資料にどういうものがあったかについては知らない、その疎明資料については被告人を自分が直接調べる段階に至っても知らなかった、というわけですね」
証人=「上司、先輩の検事から聞いてはいただろうと思いますが」
橋本弁護人=「聞いていた中身については思い出せませんか」
証人=「どうもあまりはっきりした記憶はありません」
橋本弁護人=「そうすると、結論的に言うとあなたとしては被告人を直接調べる段階においては被告人については白紙であったということですね」
証人=「嫌疑は十分あるけれども嫌疑をはっきりさせるため調べたということでしょうね」
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(続く)