【公判調書1806丁〜】
東京高等検察庁検事=平岡俊将の意見
第三、五月一日のアリバイの主張について
一、被告人、弁護人は、当審に至り事件当日の五月一日、被告人は午後二時頃まで所沢のパチンコ屋におり、それから電車で入間川駅に戻り、それから町中を通り小学校を廻って駅横の貨物小屋に三時半か四時頃戻り五時頃までいて、その間に中学生の男女が自転車で大勢通るのを見、五時三分頃、駅の時計を見に行き石田豚屋の帰り自動車を見て、また貨物小屋で時間をつぶし七時頃家に帰ったものである旨の主張をし、その道筋などの検証や関連事実についての証人調べも行なわれた。
この点についての被告人の当審陳述を検討してみると、第三回公判(四十年七月十五日)においては「入間川に降りて馬車新道という道があるんですが、俺の家の人に見つかっちゃうといけないから馬車新道から清水という店があるそのところを通って農業会の前の道を通った。農業会の前からぐっとぬけて八幡様があるそのちょっと向こうでタバコとマッチを買い、石積地蔵のところを通り入間川の学校の月見というところへ出て、そこで少し休んでいたら雨が降ってきたから学校を抜け朝日堂というところを通って荷小屋へ行った。駅を降りて馬車新道に行ったのは家の者に見つかるといけないからで、俺は弁当を持って仕事に行ってくるということを父ちゃんに言ったからである。俺の父親はすごくうるさいから、怒られるからである。そして貨物小屋に三時半か四時頃帰り、五時頃までいる間に中学の女と男が自転車に乗り大勢で馬車新道の方から上がって来たのを四時頃見た。五時三分前頃、駅に時計を見に行ったとき石田豚屋の車が残飯を積んで来たのを見たが、おかしいなと思った。それは俺がいる時分はその頃残飯を取りに行ったが、その日は残飯をつけてもう帰って来たのである」などの相当具体的な陳述をしているのであるが、昭和四十一年五月二日当審第四回の検証の際、被告人自身立会い、右の五月一日、入間川駅を降りてからの行動経路として駅前の大通りを通り、狭山茶屋の角を曲がり慈眠寺前から小学校の横に上がり、その裏を通り飯島洋裁店の横から小沢金三方横を通り、尾崎運送商会の所から貨物小屋へ引き返す経路を自ら指示して、第三回公判で述べた馬車新道を通る経路とは全然異なる経路を指示したのである。そしてその後、四十一年五月十二日付の上申書で、五月一日の道順につき、前に馬車新道を通りタバコ屋に行ったと言うたことは、それは誤りで先日の検証の際通った道が本当であると申立てている。
そして弁護人は四十三年八月二十七日付で、五月一日午後、自宅の八百屋の前を通る被告人を見かけ、互いに言葉を交わした事実を立証するとして金子金造の証人尋問を請求し、また当審第二十七回公判(四十三年九月十七日)における中田弁護人の被告人質問中で、
「前に五月一日入間川の駅に降りてから馬車新道を通り、お茶屋のところを廻ってタバコを買い、学校の方へ行ったと話をし、その途中で八百屋の息子に会ったと言っていますね」
と問い被告人は、
「はい」
と答えている。
前にというのは前記の当審第三回における被告人の陳述と思われるが、その記録の上では被告人の陳述に八百屋の息子に会ったということは全く出ていないのである。そして弁護人の四十一年四月二十三日付検証請求書及び同月三十日付検証補充請求書にも、五月一日のアリバイ主張の検証について金子八百屋は指定されておらず、また同年五月二日の検証における被告人の指示、弁護人の主張にも金子八百屋ということは全く出ていない。
*被告人、弁護人らが主張する五月一日の行動経路に対し平岡俊将検事の否定的意見はさらに続く。