アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 560

【公判調書1805丁〜】

東京高等検察庁検事=平岡俊将の意見

第二の三。

  (四)、時計を七月二日の発見届出以前に見せられたということに関連しては、右日時についての陳述のほか当審第七回公判(四十年十月五日)における証人青木一夫に対する被告人の質問がある。これによると、「時計を示した時、まだ見つかっていないとき書くのに青木さんの金張りの時計を見せてもらい、型は分からないから書いたと思うが」といい(青木証人は、私の時計は金張りではなく、その当時からこの銀張りの時計であるがと答えている)、また、「男物で、こういう時計かといって、この金張りかといって見せられた」旨述べており、さらに「善枝ちゃんの時計が出てきて、その日か次の日かに私に時計を見せた記憶はないか」伝々「それで結局俺の手にはめてみたらピッタリ善枝ちゃんの時計が合った(中略)善枝ちゃんの時計は俺がはめてみればピッタリ合うのが四ッ目の穴だからわかる、伝々。そこで長谷部さんが以前登美恵さんがはめていたので穴が足らないので一つあけたので、丁度石川と合うのではないかと言った、だから買った時計より一つ余計穴をあけてあるわけだ」との趣旨を述べている。その言うところは、見せられた時計のバンドに当初にあった穴は三つで、それでは被害者善枝の腕にはまらないため四つ目の穴を開けてあり、それが被告人の腕に丁度合った、というような具体的な事実を記憶しているから時計を見せられたことは間違いないということを主張しているものと思われる。

しかし被害品の時計は、証拠品(東京高裁四十一年押一八七号符号六一)を見れば分かるように、バンドには六個の穴があり四個ではないのみならず、特別に穴を作った形跡も見られないようである。そして被告人に対する警察官の調書においては時計を示した旨の記載は全くない。

被告人に右の時計を示したのは記録上では発見届出後の七月七日で、原検事による取調べの際これを示していることがその調書で明らかである。その際の被告人の供述は「その時計は今まで申したように善枝ちゃんの腕から取った時計です。どうしてその時計かと分かるかといえば時計の型と、側が金色で後ろが白い金属であるのが同一であり、時計のバンドが黒い皮でその古さや汚れの状況が一致するからである」と述べていて、その以前にこれを見た経験のある様子は窺えない。

右の青木証人に対する質問では、時計の図面を書いたことと時計を示されたこととの関連や、その日時の点をどのような趣旨に言っているのか明らかでないが、いずれにしても以上のような点を総合的に吟味すると、一見、極めて具体的な事実に基づく正確な記憶によるものであるかの如き被告人の主張や陳述が、必ずしもそうでないことを露呈しており、時計の図面、その捨てた場所の図面を書いた日時や、七月二日の時計発見届出の以前に時計を見せられているということなどについての主張、陳述は作為的なものか、そうでないとすれば、その具体的正確であるという記憶自体に重要な思い違い、ないし記憶違いを包蔵しており、陳述の内容に客観的事実との関連について混乱のあるものであることを指摘せざるを得ない。

*以上が東京高等検察庁検事=平岡俊将の意見、第二の三、その(四)である。次回は第三へ進む。

ところで、これは個人的な推測に過ぎないが、警察当局が押収し保管している腕時計は被害者が着用していた腕時計とは別の物ではなかろうか。被告人の証言が事実であればそうとしか考えられない。

(被告人が書いた腕時計の図面)

(①警察が発表した腕時計の御触書)

(②警察当局は被害者着用の腕時計はシチズン・コニーとしていたが)

(③発見された腕時計はシチズン・ペットである。①②③の写真は"無実の獄25年・狭山事件写真集=部落解放同盟中央本部中央狭山闘争本部・編、解放出版社"より引用)

引用写真①の"特別重要品触"に使用された腕時計の写真であるが、警察はどういった過程を経てこれが被害者着用の腕時計と同型だと特定したのだろうか。狭山事件関連書籍などには、捜査員が被害者宅に赴き、腕時計を購入した長兄からその保証書を入手、さらに捜査員は長兄を同行させ腕時計を購入した店で類似品を探し求めた、などと記載されているが、これが事実なのかどうか。そして最大の疑惑は、探していた腕時計と発見された腕時計は機種が違っていたという事実である。シチズン・コニーとシチズン・ペット。これはもう袴田事件再審決定の決め手となった血痕の付着した服の件を遥かに上回る、確固たる誤判の証拠となり得るのではなかろうか。