アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 527

【公判調書1680丁〜】

「筆跡鑑定について」                                       中田直人

二、筆跡鑑定の科学性(後)    

フランスの筆跡専門家ソーランジュ=ぺルラー(注:1)は、「筆跡は、強さ、形、大きさ、連続、整頓の関係で決まる」と言った。日本文字に即して、筆跡鑑定でよく使われる用語でいえば、「強さ」とは運筆の速度、強弱、つまり「筆勢」「筆圧」であり、「形・大きさ」とは筆跡相互間の大きさや角度、つまり「配字」であり、「連続」とは運筆の順庁(注:2)、運筆の形態、起筆、終筆の方向、つまり「筆順」であり、「整頓」は一つの文字を使っている各字画相互間の大きさ、角度、間隔などの関係、つまり「字画構成」(または「文字の形態構成」)である。これらは筆跡鑑定において、「相同性と相違性」「希少性」「常同性」を確かめていく場合に、筆跡のそれぞれの特徴を分析するための手がかりとなる類型である。

これら筆跡特徴の類型のなかでも、個人の筆癖が文字のどの点に最もよく現れるかということで重要なのは、筆順と字面構成である。しばしば引用されるように、筆跡計測法の研究家ロカールは、「実験上、筆跡で恒常性のあるものは、文字の絶対の大きさではなく、字画相互の大きさの比率、すなわち相関数値である」と述べており、戸谷鑑定人や町田氏も指摘するように、このことは、すでに確立された見解であるからである。

しかし、筆順や字画構成の分析から、固有の特徴的筆癖を抽出する場合でも、経験的比較や主観的判定に陥ることなく、科学としての客観性を持ち得るためには近代統計学(推計学)の助けを借りることがどうしても必要である。例えば、第一画が短いとか長いとかという特徴付けや、偏(へん)に対して旁(つくり)が上位から起筆されているといった指摘が、どの程度その個人の筆癖を特徴付けるものかは、同じ一つの字についても、多くの人の書いたものを集めて調べてみなければわからない。その特徴が各個人によってどう違っているのかを、その特徴の分布の仕方から法則的に掴んでおかなければならない。また、同一人の筆跡でも全く同じということがある筈はなく、平常の時、急いだ時、緊張した時、筆跡を変えようと意識している時など々について、それぞれの特徴の分布に法則性を発見していかなければならない。それらは皆、統計学的処理によって可能となる。資料となる筆跡や文字の数が少ないときには推計学的な推定の必要が生まれてくる。推計学的推定は科学的厳密さをもって、確からしさの範囲を決めてくれる。

別に難しく考えることはない。ほんとうは大変簡単なことである。例えば、木偏の第一画が第二画に対して長いとか短いとかという場合、同一人の筆跡でも全く同じ比率を持っている筈がなく、ある範囲にばらついている訳であるから(つまり統計学的な分布である)、その中の長いもの同士を比べて同一であるとしたり、特に長いものと特に短いものを比較して相違するといっても、正しい答えのありようがない。筆跡鑑定で、このような比較をすることは許されない。ところが、従来の筆跡鑑定のほとんどはこの主観的な、恣意的な、非科学的な比較に頼ってきたのである。戸谷鑑定が批判する関根・吉田、長野、高村の三鑑定とも、この域を出るものではない。再び町田氏の言葉を借りれば、「同一特徴のみを発見して同一筆跡と言っても、また異質特徴のみ発見して別異筆跡と言っても、それは全く論理の飛躍でしかない。二つの筆跡の特徴を比較した場合、同一特徴のみということは絶対にないし、異質特徴のみということもまた、あり得ないのである」(前掲書百三十一頁)。

こうして戸谷鑑定は「筆跡鑑定が真に科学的になる為には、まず筆順、字画構成の母周囲(注:3)に対する法則を明確にし、統計的処理によってその法則を更に深めるという科学的方法によらなければならない。かくして初めて鑑定結果の信頼度を定量的に評価することが可能となる」と結論する。

ことさら町田氏の言葉を二度も引用したのは、町田氏が当審鑑定人高村巌のいわば教え子であるということもあったからである。町田氏が多少とも「統計的な研究の結果」に着目し、筆跡の特徴総数に対する同一特徴の百分比を求ゆ、これを鑑別基準とする鑑定方法をとっていることは、高村鑑定人の鑑定方法からすれば、ある程度進んでいるといえよう。もちろん、町田氏の鑑定方法も十分に科学的信頼度を持つものではなく、多くの批判がなさるべきである。ただここで強調したかったのは、高村鑑定の方法論が(それはまた関根・吉田鑑定、長野鑑定においても全く同様なのであるが)自分の弟子からも、その非科学性を批判されているという事実である。

科学は謙虚である。不確かなこと、現在の科学的技術では認識できないことには「事実」や「結論」を持ち込まない。その謙虚さを失ったとき、科学は科学でなくなる。科学が謙虚であるのと同じく、いやそれ以上の社会的責任を持って、裁判は謙虚でなければならない。戸谷氏が、「筆跡鑑定を中心にした日本文字の組織的な研究が皆無の現状においては、客観的に説得力を持つような鑑定は不可能であろう」というとき、裁判所は、従来の筆跡鑑定によって裁判の結果を左右することを、厳しく反省しなければならないのである。筆跡鑑定がいかに裁判を誤らせてきたかの例は、戸谷鑑定書添付の資料中の「筆跡鑑定いまむかし」という「科学朝日」掲載の論文からも、いくつか拾うことができる。いや、鑑定人の政治的立場が、鑑定結果そのものを左右することすら少なくない。ドレフュース大尉を有罪にしたのは、五人の鑑定人中三人が軍事機密を送った文書をドレフュースの筆跡と鑑定したからであった。彼の無実が明らかとなり、ヨーロッパ中を沸かせる国際的問題にまで発展したとき、十一人の鑑定人は十一人とも、彼の筆跡ではないと鑑定したのである。

殷鑑遠からず、高村鑑定人も、町田氏も、まさに師弟相共に鑑定を誤ったことがある。昭和二十三年静岡県清水市で起こった小切手詐取事件で、両氏を含む三鑑定人が、小切手の裏書は被告人の筆跡と一致すると鑑定し、被告人は一、二審とも有罪の判決を受けた。ところが上告中、真犯人が別に現れたのである。

同じ誤りを繰り返してはならない。本件において、脅迫状の筆跡を被告人のものであるとする三つの鑑定が、その科学的根拠を十分明らかにしない限り、証拠としての価値を認めることは許されない。

*次回は「三、三鑑定の非科学性」へ進む。

・・・ところで、今現在熟読しているこの「狭山事件公判調書・第二審」であるが、裁判記録にしては誤字、脱字が割と目立つ。だが、明らかに誤字であると判明したとしても、本多勝一の言う「・・・引用する場合、それが誤字であっても、あくまで原文に忠実に」との引用時の掟を守りたく、それを実行すると、これがちょっと面倒な事になる。誤字を原文通り引用しよう、しかしその誤字は引用する過程での誤用ではなく、あくまで原文通りでありますと注釈を入れ、場合によっては誤字を正しい文字に訂正し、その説明などを加えなければならない。しかし考えて見れば、このブログは単に老生の趣味で行なっているのであり、そこまで厳密さを求めなくとも許されるだろう。さて本日の備忘録として、とりあえず今回引用した公判調書の、もしかして誤字かもしれない、という例を挙げてみる。

(注:1、これは誤字とは違うが) “フランスの筆跡専門家ソーランジュ=ペルラー”と引用したが、ペルラーのぺの文字が“へ”に濁点なのか、丸が付くのか、公判調書の印字では分かりづらく、そしてどちらが正解なのかも不明である。答が判明次第、訂正しようと思う。

(注:2)について。この二文字をネットで検索したが該当する文字は無く、文脈から推測するに“順庁→順序”が正解ではなかろうか。

   

(注:3)この三文字も同様、該当する言葉は見つからず。何かの専門用語なのか。文脈から推測するに“母周囲→母集団”が正解ではないかと思われるが。以上の問題は保留としよう。