アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 531

【公判調書1688丁〜】

「筆跡鑑定について」                                       中田直人

三、「三鑑定の非科学性」

(前回より続く) 「な」についても、関根・吉田鑑定と長野鑑定は、第二画が第一画の上に長く出ていることを特徴としているが、関根・吉田鑑定写真第三十三図、第三十五図、第六十図、第六十一図、長野鑑定写真第十七図、第十八図、高村鑑定第二十二ないし第二十四図を比較すると、むしろ脅迫状の「な」は、第一画で横切られている第二画の上下の比率は、第一画の特殊に右上がりの傾向と第二画が第一画の上に長く出ている点から小さいのに対して、他の文書の被告人の筆跡は、第一画の上に出ている長さが比較的短く、下が長いため、その比率が大きい。これはかなりはっきりした相違点である。そして「な」字を問題にするのなら、より明瞭な違いを第一画の右上がりの角度に求めることができる。脅迫状では五字数がみな三十数度もあるのに、他の被告人の筆跡はほとんど水平に近く、せいぜい十度前後である。この角度の顕著な相違は、恒常性を持つ特徴であり、そのため第一画と第二画の交わる部位が、脅迫状では第一画の左端起筆部に近寄り、他の文書では第一画の中央附近にあるという明瞭な違いとなって現れている。字画構成の比較では文字の形態的な類似を直感で探すよりは、このような視角から捉えなおさなければならない。そうすると、「な」字には著しい相違性があるのである。

もう一つだけ、長野鑑定のみが問題としている「け」字に触れよう。そこでは第一画と第三画の間隔の狭さを指摘しているが、長野鑑定写真第三十五図と高村鑑定写真第四図、第六図の各手紙の「け」を対比すると、後者では、逆にその広さが目立っている。問題なのは、何よりも字画構成における相関数値である。このように、三鑑定がサンプルとしなかったもの、とくに対照資料にかなりの数を持っている文字に多くの相違点があること、また同一筆跡として挙げる文字にも、字画構成の角度からはむしろ相違点が多くあること、しかも、三鑑定が抽出したサンプルは、対照資料のなかに多くの字数がある文字について、それぞれの特徴をまず明らかにするという態度によったものでなく、たった一字でも似ているものがあればそれを取り出し、拡大するというやり方であることなどから、鑑定が全く恣意的であり、直感的な勘だけに重きを置く、つまりは全く非科学的なものであることが明らかとなった。

四、むすび

本日は、三鑑定の非科学性をまず概括的に指摘するに止める。後に、さらに詳細な批判をするであろう。六月九日付清水調書、同日付原調書、六月十二日付清水調書で、被告人は「字の先生が似ているというのは信用する」と述べたとなっており、当法廷でも「脅迫状の写真のようなものを見せられたとき、その字は自分の字と似ていた」と公然と述べている。戸谷鑑定でも指摘があるように、一見似通った字は確かにある。しかし、だからといって、脅迫状の筆跡が被告人のものであると客観的に断定する科学的根拠は少しもない。そのようなものを断罪の証拠としてはならないのである。それに被告人は、十分な教育を受ける機会も与えられず、文字を書くこともほとんどないという長い生活を送ってきた、否、強いられてきたのであるし、逮捕後は脅迫状をいわば手本にして、警察官、検察官から文字を書く練習に励まされたという経緯もある。似通った字があるということ、被告人自身、自分の字と似ていると思ったということなどについては、被告人の生い立ち、環境、教育、習慣、交友関係などに深く洞察を持ち、それらの点からも検討されなければならない。それは同時に、三鑑定の非科学性をより一層明らかにすることにも役立つし、引いては、被告人の筆跡が脅迫状の筆跡と別異のものであることを、進んで論証することにもつながるのである。

われわれは、裁判所が高村鑑定人の尋問を施行し、その鑑定が十分に科学的根拠を持ち得ないことを直接確め、そこから筆跡をめぐる問題について、従来の鑑定への信頼をまず捨て、一層の検討を進めることを望むものである。

*以上で 「筆跡鑑定について・中田直人」の引用を終える。