アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 143

戸谷 富之鑑定人による公判廷での口頭報告。今回は『3.従来の筆跡鑑定方法は色々の点で不十分であると思うがそれがどういう形のものでなければならないかということで、筆跡鑑定における統計的方法の必然性』についての報告である。戸谷鑑定人:「大勢の鑑定人の方が相同性や相異性だけでなく稀出性、常同性も必要だということは、例えば当審の高村鑑定人もこういう言葉は使っていませんが異人によっては書けないような筆癖を捜さなければいけないと言っております。先程述べた元北海道大学農学部の太田講師の事件についてなした私の筆跡鑑定に対して高村鑑定人は、私の言うとおりであって、私達もそういうことは念頭においてやっていると言われておりますが、現実にそういう問題を捜してみますとそうなりません。例えば稀少性の先程の木偏の第三画が第一画、第二画の交点から少しずれたところから起筆されている。それを、例えば高村鑑定人は、太田被告の特徴だと言っております。しかし、私が調べてみますとむしろ第一画、第二画の交点から第三画を起筆している人は非常に少ない。第一画と第二画の交点から第三画を起筆するのは私らが小学校の頃習字で木を書くとき第一画、第二画の交点から書いていました。ところが、現在では殆どの活字までが木偏は第一画、第二画の交点から起筆されていなくて、第一画、第二画の交点から少し下のところから起筆されています。どうして相同性、相異性あるいは稀少性、常同性ということが必要だということが分かりながらも実際の鑑定に稀少性、常同性について論じていないかというと、比較する方法論が非常に難しい段階のものになってくるからです。それは似ているという〇のあげ方も鑑定人によって随分指摘する場所も違うのです。例えば第二画の引き方が割合下までずっと伸びているとか、少しかたによっているとか、そういうような特徴のあげ方をしますが、そういうのが例えば似ているのであれば、あげていないようなところは全部違うのかというと違うとも言われないわけです。例えば第三者がどうしてそれを似ていると言い、どうしてこの点は違わないと言わないのかというと結局答えられないような場合が非常に多い、それは当然であって、先程木偏の第一画、第二画の例を述べたように、例えば第一画、第二画の比が重要な問題だとするときに、ただ幾つかの字を被検、照合両文書から取りあげて、そこが似ている、似ていないと言ったのでは、真実の比較はできないわけです。真実の比較をするためには、どうしても一人の人の書く字画構成がある分布をするわけですから、問題は分布の比較にならなければいけないわけです。それでどうしても統計的な方法というか、推計的方法が導入されなければ、ある分布をなすようなものに対しての比較はできないわけです」・・・ふ〜。油断すると居眠りしている自分に気付くが反省し、再読した。この報告を法廷で聴いていた先生方はどうであったか。さて、私は狭山裁判において戸谷鑑定人による筆跡鑑定についての報告などが存在したことに驚き、そして喜びながら目を通しており、今のところはなんとか理解もできている。だが戸谷報告は徐々に難解な様相を帯び始めているようである。私に理解できるかな。                                        

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( 本文とは全く関係ないが、右端のハイライトは縦のサイズが微妙に短い。何故だろう )