【公判調書1687丁〜】
「筆跡鑑定について」 中田直人
三、「三鑑定の非科学性」
(前回より続く)もう一つ指摘しておこう。高村鑑定は、いうところの「潜在的個性」が起筆、終筆、線条の震えとなって現れるといっている。三鑑定に数多く添付されている拡大写真を見てもらいたい。脅迫状の筆跡は、多く終筆部が勢よくはねられているのに、被告人の筆跡は少しの例外を除いて、ほとんどが筆圧をぬかないで止められていることに、容易に気付く筈である(たとえば、長野鑑定添付写真第十七図から第二十四図までの「な」「は」「ま」「た」「が」を参照されたい)。これもまた極めて重要な相違点である。「潜在的個性」が多く現れる終筆部に、このような相違点が存するのである。三鑑定とも、この点には少しも触れていない。
三鑑定が取りあげなかった文字に、多くの相違点が認められるばかりではない。三鑑定とも取りあげており、同一性、類似性を強調する文字のなかにも、実は多くの相違点があるのである。三鑑定が類似点のみをことさら取り出して結論を急ぐ主観的判定に終始していることが理解できよう。
例として「た」字と「な」字を挙げよう。
関根・吉田鑑定も長野鑑定も、第二画が第一画の上に長く出ていることを特徴にするが、高村鑑定はこの点を取りあげない。被告人の筆跡(写真第十一図、第十二図)は、別に特異なものではないからである。また長野鑑定は、第三画が第二画に接近していることを指摘するが、他の鑑定は少しも触れない。同一だと言っている一つの文字についても、みどころが皆まちまちである。第三画が第二画へ接近しているかどうかは、第三画と第二画の関係だけでなく、第四画と第二画との関係をも対比して初めて意味があると思える。長野鑑定写真第四図、第五図、第二十二図、第二十三図、高村鑑定写真第十図ないし第十二図を見ると、脅迫状の「た」は、第三画が第二画に接近しているのに反して、第四画は第二画から離れている特徴を持つが、被告人の筆跡は、第三画も第四画も、第二画との間隔にそれほど大きな差を持ってはいない。とくに上申書の「た」に顕著である。とすれば、これはむしろ相違点である。
第一画で横切られた第二画の上下の比率を見ると、脅迫状は、上が長く下が短いものとその逆のものがあるのに、上申書は、上下の長さの差が少なく、また内田裁判長宛の手紙、中田栄作宛の手紙では、上が短く下が長いなどいろいろある。このような場合、この比率について「希少性」「常同性」を統計的に確かめ、各文書について何が固有の筆癖かを検証することが大切であり、そうでない限り比較として意味がない。
*この続きは次回へ。しかしこの筆跡鑑定というものは大変危うい側面を持ってはいないだろうか。日常生活において文字を書く状況に置かれた時、老生のようなヘソ曲りは筆跡を変えてみたり、変えなかったりと無駄に意識し、実行することがある。また、ある時期に従事した仕事では、その作業内容が手書き伝票の書き溜め、であり、この作業を行なうにおいては極力個人の筆癖を封じ、万人が見てその伝票の情報を速やかに得られるべく、ゴシック調の書体で統一する努力をし、従ってその時期の個人的なメモ書きなどは、やはりその容態をなし、老生自身の筆跡には同一性が無い、という事態になる。これは何らかの犯罪に巻き込まれた場合、面倒な事になる。個人的に思うが、筆跡鑑定は証拠能力において、ややその力は弱いと思われる。