アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 457

【公判調書1563丁〜】(前回より続く)

                      「狭山事件の特質」

                                                                           中田直人

3.『犯人逮捕に失敗した警察は、現場周辺で捜索を開始し、犯人の足跡を発見したとされている。県警本部刑事調査官・長谷部梅吉の指示で飯野源治巡査はそのうち三個を石膏で採取したという。脅迫状に続いて警察が最初に入手した証拠ということになる。                      

    他方、本部機動隊以下四十五名、地元消防団員七十名を中心とする捜索隊が編成され、通学路と想定された佐野屋から入間川、入曾方面へ通ずる薬研坂東側山林、畑の捜索に当たった。 五月三日午後三時頃、その一員であった関源三巡査部長は、入間川井戸窪一二九八番地先雑木林から自転車の荷掛用のゴム紐を発見した。このゴム紐が被害者に関する最初の発見物であるとされている。これより早く五月二日朝、兄健治は封筒の切れ端と見られる小紙片を自宅庭先で発見しており、五月三日或は四日頃、これを警察に提出した』

4.『山狩と呼ばれた捜索は、五月四日も続行された。その結果、午前十時三十分頃、入間川二九五〇番地先の農道(荒井平吉所有)で被害者の死体が発見された。農道に縦一.六六米、横〇.八米の穴を掘って埋められており、手拭で両手を後手に縛り、タオルで目隠しされ、スカートがまくれ、ズロースが膝附近まで引下げられたままの姿で両足を真直ぐに伸ばしてうつむけに埋められていた。死体の右側頭部に人頭大の玉石一個重さ四.六五kgが置かれており頚部には木綿細引紐が巻かれ、後ろで括られていた。足首も木綿細引紐でしめられ、その末端が荒縄に結び付けられていたが、細引紐の端の輪になった部分にビニールが結び付けられ、千切れていた。荒縄は死体の上に足首から頭の上にかけて置かれていた。                                                                  時を同じくして、そこから約二十米離れた麦畑端に近い、さつまいも貯蔵穴からビニール風呂敷とコン棒(直径三.五センチ、長さ〇.九四米、その三分の一くらいに土が附着していた)が発見された。このビニール風呂敷は、その後被害者が持っていたものと確認されたようである。というのは、実況見分に兄健治が立会っていたのに、実況見分書によれば、未だ被害者が持っていたものと確認されていないが、その後の捜査過程の中では、これが被害者が持っていたものとして取扱われているからである。しかし、いつその旨の確認がなされたかは証拠上不明である。                                        死体は、その日被害者宅で解剖に附され、死因等の鑑定にまわされた。着衣等、死体と共にあった物が押収された。鑑定の結果、死因は頸部扼圧による窒息死と見られ、前頸部の赤色斜走線は生活反応なく索状物の死後の圧迫によって生じた死斑と判断された。(中略)胃内容から、最後の食事から三時間以上経過した時死亡したものと推定された。以上が事件の客観的側面である』(続く)

(写真は“無実の獄25年・狭山事件写真集=部落解放同盟中央本部中央狭山闘争本部編・解放出版社”より引用)