【公判調書1543丁〜】
『第三十六回公判』(昭和四十五年四月二十一日)
ここに記載された題目の中に「控訴の趣意」とあり、主任弁護人はそれを「控訴趣意書記載のとおり」と述べているが、この控訴趣意書の分量は電話帳数冊分に上る。やがては読まねばなるまいが、その膨大な分量から来る圧力を想い、今宵、早くも晩酌が進む・・・。
【公判調書1545丁〜】
『第三十七回公判』(昭和四十五年四月二十三日)
ここには特筆するべき事柄はない。
【公判調書1548丁〜】
『第三十八回公判』(昭和四十五年四月三十日)
「更新手続における証拠に関する意見」
○昭和四十五年四月二十一日
「狭山事件」の経過と特質。弁護人・中田直人
「現場足跡」は偽造された。 同 ・植木敬夫
○同 年 同月二十三日
三つの証拠物 同 ・宇津泰親
「荒縄」などの物証の問題点 同 ・橋本紀徳
「筆跡鑑定について」 同 ・中田直人
○同 年 同月 三十日
「自白の生成とその虚偽架空」 同 ・石田 享
五月一日、二日の被告人の行動 同 ・福地明人
[狭山事件の特質]
中田直人
被告人は、いわゆる善枝さん殺しについて無実である。強盗強姦、強盗殺人、死体遺棄、恐喝未遂事件については無罪が宣告されるべきである。本件の経過をここで客観的に振り返ってみることは、われわれのこの主張を明らかにするうえで重要である。
第一、本件の経過
一、事件の発生から起訴まで。
1. 『昭和三十八年五月一日、狭山市大字上赤坂・中田栄作方においては、川越高校入間川分校一年生中田善枝が夕刻六時すぎに至るも帰宅しなかった。その日は中田善枝の誕生日であった。兄健治は帰宅が遅いのを心配し、自宅の小型貨物自動車で六時五十分頃家を出、学校、入曾駅等を捜して七時三十分頃自宅に帰って来た。善枝の姿は見つからなかった。健治は、七時四十分夕食を済ませた。何気なく入口を見たときガラス戸下に白い封筒を発見した。封筒は、いったん封をしたものが乱暴にちぎられてあり、表にも裏にも中田エサクと書かれていた。健治がこれを開けようとすると、先ず身分証明書がパラリと落ちてきた。封筒の中には四つに折った、大学ノートを破った紙があり、これに「子供の命がほ知かたら五月2日の夜12時に、金二十万円女の人がもツてさのやの門のところにいろ。友だちが車出いくからその人にわたせ、時が一分出もをくれたら子供の命がないとおもい。刑札には名知たら小供は死。」などと書かれた脅迫状があった。父親中田栄作は子供が誘拐されたものと考え、健治と共に警察に知らせようとして、先刻健治が善枝を捜しに行ったときの貨物自動車を入れておいた納屋に行くと、被害者が通学用に使っていた婦人用自転車がその自動車の脇に立ててあった。父栄作、兄健治の二人が堀兼駐在所に届け出たのは八時に五分ぐらい前である。
事態は狭山警察署本署に通報され、指定の日時が五月一日であるかとも理解されたのであろう、姉中田登美恵が二十万円に偽装した紙包を持ってその夜佐野屋に行き、遠くで張り込んでいたが犯人は現れなかった』(続く)
*今回に至るまで狭山事件の被害者名は伏せてきた。理由は裁判記録に被害者の遺体写真が載っており、その無残な姿は言葉にすることすら憚れ、名前を晒すことは、死してなお被害者に対し無礼ではないかと考えたからである。しかしこの狭山事件の裁判記録と今後も付き合っていく以上、やはり被害者の存在は事件の要であり、今回、その名を正確に記録しておかなければならないと判断した。ここに中田善枝さんの冥福を心から祈る。
さて、脳のチャンネルを切り替え本日もノコノコと府中界隈に出かける。 府中と言えばここしかない、人生崩壊への入口 “東京狂馬場” である。
現在は場外馬券場扱いゆえ、えらく閑散としているな。そそくさと内馬場へ向かう。
内馬場へ通ずる地下道に描かれた壁画。ふむ、勉強になりますな。内馬場のベンチに座り保温ポットに仕込んだ日本酒熱燗をチビリチビり飲みながら馬券を買ってみる。今回初めて「オッズ」というものを意識して買うが、これが効いたか奇跡が起こる・・・。
的中!的中である!3-8-2!
やったぜ、おっかさん!
・・・こんな感じで、人は地獄へ堕ちていくのであろう。