アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 166

(前回より続く)「播磨龍城『龍城雑稿』によって、わが国における筆蹟鑑定の歴史を見るに、明治初年の頃は古筆家によって鑑定せられている。古筆家は、関白豊臣秀次時代の古筆了佐を祖とし、古筆手鑑などによって古筆を鑑定する職業である。明治初年、古筆了悦、古筆了仲の二人は太政官から、家職に対する格式は廃止するが御用命は従来通り仰せつけられる、と告げられている。そして裁判所はもっぱらこの古筆家に鑑定させている。裁判所が鑑定を必要とするときは、東京府勧業課に照会する。勧業課はこれを古筆家に伝えるという手順を取っている。しかしその報酬は低廉すぎて気の毒だということで、市内十五人の有資格者を選定しておき、はじめは古筆家が順番に取りつぎ、ついで裁判所から直接に任命するようになっていったとのことである。しかし地方では鑑定人が得られず、中学校の書道教師などに鑑定させたようである。その後鑑定料も増額されたので、日当目あての鑑定志願者が裁判所書記課に鑑定営業を申し出るようになったとのことである。大正末年頃には、古筆家を継ぐ湯浅了雅、古筆了信のような人から、印刻業者、書道家歴史学者(古文書)、自称鑑定業者が入り混じっていたようである。龍城は篆刻家・岡本椿石を指して、専門の印影鑑定には適任であっても専門外の筆蹟鑑定に何の権威があるかといい、習字教師については、学生の習字をなおしたりその巧拙を品評する能力はあっても、俗人の書いた文字の異同を判別する能力などは無いとしている。そして「実際のところ、現今の鑑定のやり方では其の鑑定がどれだけ裁判官の参考になるであらう歟(真細目の裁判官の)、鑑定人の眼よりは裁判官が自眼で認定する方確実ではあるまい歟(注)とさえも言っている。法廷で裁判官の面前で一人に二枚を筆記させて鑑定させたところ、異筆と鑑定して裁判官を驚かした例、同様二人に二つの筆蹟を書かせたところあべこべに鑑定し、その鑑定人の鑑定書もオジャンになった例を挙げている」( 注 :  歟 = 訓読みで“か” : 疑問などを表す)          

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