アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 165

戸谷富之鑑定人による参考資料 : 2 「刑事裁判と筆跡鑑定」(一)「マックス・ヒルシュベルク『誤判』(安西温訳)は『筆蹟比較の鑑定人は、とくに害を招きやすい。いかなる領域においても、筆蹟比較の場合ほど、多くの似非鑑定人が幅を利かせることはない』といって、『筆蹟比較は単なる論拠、間接証拠、蓋然的推定でしかない。また、これほど容易に、もっと適切な言い方をすれば、これほど頻繁に誤りが犯されるものはない』と言ったフランスの弁護士ダゲッソーの言葉を引用している。筆蹟鑑定による誤判事件として、もっとも有名なものは、言うまでもなくドレフュス事件である。フランス銀行に雇われて手形や小切手の真偽を鑑定していたゴベールは、ボルドロオと呼ばれる紙片とドレフュスの自筆とを比較して別人であると判定したのであったが、警視庁の鑑定人ベルチヨンはこの両者を比較して、ボルドロオは『非常に巧妙な模倣の偽作でない限りアルフレッド・ドレフュスの筆蹟であることを保証する』と鑑定した。ドレフュスはこのベルチヨンの鑑定によって、軍人としてはもっとも不名誉なスパイ罪で終身流刑に陥れられたのでる。欧米諸国はサインの国であるから筆蹟鑑定の伝統がある。そしてドレフュス時代よりも科学的方法を取り入れて筆蹟鑑定も進歩しているであろう。それでもなお、前記『誤判』の著者の言葉があるのである。もし筆蹟鑑定が指紋のように一つしかなく、絶対正確にその筆者を判別し得るものであったならば、筆蹟鑑定は被告人のために利益でもある。ジェローム・フランクらの『無罪』(児島武雄訳)は、もし被告人に金があって筆蹟鑑定をしていたならば、当初に無罪となっていただろうという三つの事例を挙げている。このように筆蹟鑑定の持つ意義は複雑ではあるが、まだ指紋と同視し得るような筆蹟鑑定は出来ていない。このことから種々の問題がでてくるのである( 続く ) 」・・・私は今、狭山事件公判調書・第二審を読んでいるが、それを忘れさせるほど、とても深い所へ入り込んでいる気がする。引用している資料がとても興味深いものであり、筆跡鑑定とは何か?を考え出すと、それだけで一生を終えそうである。しかも「ドレフュス事件」や「誤判」「無罪」と未読の文献が新たに現れ、これらも読み込まねば引用した資料に失礼である。限りある人生であるからして、飲酒を控え“しらふ”の時間を増やし対処しよう。    

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( ウクライナに寄付金を送った。日雇いの身分ゆえ少額であるが。大好きなワシル=ロマチェンコ ( プロボクサー)が祖国を守るためグローブを外し銃を手にした。非常に悲しい現実である )