アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 121

公判調書877丁。証人 : 原 正。職業 : 検察官(浦和地方検察庁)。原証人は事件発生後の昭和三十八年五月四日より本件を担当する。石川被告が狭山警察署から川越警察署分室に移送後、接見の指定等の関係を原証人が担当。ここでは川越警察署分室での、弁護人による接見の求めに対し、原証人を含めた警察側の接見禁止という判断に至る経緯を追及する。何故ならば、この警察側の実力行使により、弁護人が接見できぬ間に石川被告が三人共犯説なる自供を開始、そこに弁護人らは強い疑問を持ち、何らかの特別な理由が警察側に存在し接見を妨害したと考えたからである。原証人は弁護人の追及に「毎日面会されたのでは捜査上困るから」と、つい本音を漏らしながら、困る理由を尋ねられると「被疑者を取調べておる最中に被疑者に接見だと言ってこられると捜査の腰を折られるというか、捜査がそこで中断してしまうからであります」と述べ、つまり、邪魔をするなと、こう言いたかったのであろう。ちなみに石川被告人の自白調書は弁護人が接見できなかった時期に集中している。問答は進み、脅迫状の文面に書かれた「刑札」の文字に質問は移る。石川被告の自白では「刑札」の文字はリボンという雑誌から見つけ脅迫状に書いたとされるが、その雑誌には「刑札」という文字は無かったという事実。これについて原証人は「これはリボンという雑誌だけではなく石川一雄の家には他にも子供雑誌があったので、そういうのを見たのではないかと思います」と述べる。この、「見たのではないかと思います」という言葉。推測ではないか。原証人は「押収されたものだけが石川一雄が目をとおしたということではないと思います」とも述べるのだが、では刑札という文字が載った雑誌はどこに存在するのか。さらに原証人は雑誌について「学校関係、友達関係を聞いてみたのですが、その当時のことはわからなかったのです」と述べるに留まる。私は絶句した。刑札という文字。これを石川被告が、どこの出版社で何年発行の何月号の、どのページから引用したのか、全く明らかにされていないのである。公判調書888丁まで読んだ時点では、この点についてこれ以上の追及は行われていない。人が人を裁くならば、その証拠について確度の高い情報の開示が必要であり、上記の「刑札」問題で言えば検察官は法廷で該当雑誌を指し示し、いつ、どこで、誰が発行し販売された、それの何行目に該当の「刑」及び「札」の文字が存在すると、せめてその程度の主張は行なわなければならず、これは、むしろ弁護人らの追及不足ではないかと私は憤りを募らせた。                                    
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