アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 88

第二審公判調書621丁に目を通すと、宇津弁護人は質問の内容を警察による手拭捜査に移していた。手拭とは、事件の被害者が遺体で発見された際、その両手首を結んでいた五十子米屋配布のそれを指す。ここで展開される宇津弁護人と小島朝政証人の問答は比較的噛み合っており調書を読む上で支障はないと感じた。こここでの小島証人の返答は、彼には珍しく詳細かつ明確である。彼によると、手拭の捜査は捜査員四十五名で編成され、小島証人はその班長として捜査本部に常駐し、捜査員たちが五十子米屋の配布先から任意提出させた手拭を集め、まず手拭の製造年別に昭和三十七年製と三十八製とを分けたという。識別の基準として手拭に印字された電話番号の局番の有無、製造時における、染め抜き用型紙に起因する手拭の柄模様の一部欠損などが挙げられた。五十子米屋が手拭を依頼した染物屋では、型紙自体は同じものを使うが、年度別に比較するとそれぞれ違いがあり、意図的な局番等の掲載、不掲載もあれば、意図せず型紙に埃などが詰まり部分的な染め抜き欠損が生じ、手拭の柄模様にそれが反映される等、捜査員たちは情報を集め識別作業にあたった。調査した手拭の製造年は昭和三十五年から三十八年であり、さらに五十子米屋からの聴取により、各年度別の顧客への手拭の配布状況などから、犯行に使用された手拭の製造年を割り出し、その年の配布先を特定した。この捜査状況を述べる小島証人は饒舌であり、弁護人の「捜査目的で染物屋から借りた型紙は何回位借りたか」の問いに「一つでございます」続いて「次々と糊を入れて、その糊を入れ終わったあとで染色材料を流すと」と製造過程まで語り出し弁護人に「その作り方は、むつかしいからよろしゅうございましょう」と、たしなめられる。宇津弁護人の問いは、本件の被害品である手拭が昭和三十八年製造であることを小島証人から引き出し一旦終わる。                      

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(無実の獄25年狭山事件写真集:部落解放同盟中央本部中央狭山闘争本部編:解放出版社より引用)