アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 486

【公判調書1596丁〜】

「現場足跡は偽造された」                               植木敬夫

二、足跡採取の怪

さて、この実況見分調書の記載は、一見なんの変哲もないように見える。しかし、すこし注意して読むと、われわれ法律実務家の常識からはとても素直には受取れない、数々の問題を含んでいることが直ぐにわかるのである。

(一)、『まず、ごく常識的に考えて、犯人が五月二日の夜潜んでいた地点も、その周辺も、同じ畑の中なのであるから、犯人が潜んでいた地点にも同じ足跡があった筈があった筈であるのに、そのことの記載がないのはどういうわけであろうか。もっとも、そこは犯人が幾重にも踏み固めてしまって一定の形を成した足跡がなかったと弁解できるかも知れないが、そこが犯人の潜んでいた地点に間違いないならば、少なくともそこへ犯人がやって来、そしてそこから逃げて行った経路に足跡が付かないわけは絶対にないのである。まして、足跡は、それが発見し得るものならば、この事件では脅迫状につづく犯人発見のための二番目の重要な手懸かりになるはずのものであった。そして犯人の潜んでいた地点が確認出来たとすれば、そこへ来る、またはそこから出て行く足跡は犯人のものに間違いないのであるから、その経路を辿って鮮明な足跡の発見に努めなければならないことは、極めて初歩的な常識であるから、警察官たるものがそれに気付かないはずはないであろう。

ところが、この調書には、犯人の潜んでいた場所 (のちに裁判所の検証で立会人の指示した場所) から少し離れた県道寄りのところに、たった「一ヶ」の足跡があったと書いてあるだけで、犯人の潜んでいた場所にも触れていなければ、もちろん、そこと「一ヶ」の足跡との関係にも触れていないのである。

なんとも奇怪な調書ではなかろうか』

*次回(二)へ続く。

狭山の黒い闇に触れる 485

【公判調書1596丁〜】(前回より続く)

「足跡は偽造された」                                      植木敬夫

(三)右のような喰違いは、例えば被害者の殺害状況についての被告人の取調べのように、自白を客観的事実に合わせるための執拗な努力を行なえば、簡単に一致させることができた筈のものである。というよりは、道順の自白と足跡の位置を一致させることは極めて単純な事柄であるから、すでに基本的な犯行を自白している被告人に、現実にあった足跡に合うよう道順の自白をさせることには、なんの努力も不要というべきであろう。

しかし、どういうわけか捜査当局はそれをしなかった。というより、右の自白調書の内容を見ると、あの大騒ぎした五月二日の夜の状況としては、ひどくあっさりしたものである。そして、右の調書の後、この夜のことはまったく追及してはいないのである。このことは、自白の他の部分とのつり合いから言っても、どうにも奇妙である。

ともかく、このような証拠の状況は、当時捜査当局がこの足跡をほとんど重視していなかったことを示すものであることだけは間違いない。では、どうして重視しなかったのか。確かなことは、以上の点からだけでは分からないが、私には、これは当時捜査当局自身が状況見分調書記載の足跡を、本当に犯人の足跡だとは信じていなかったためであるように思われる。

このことは、さらにこの実況見分調書を検討することによって次第に明らかになるであろう。

(続く)

*以前、古本屋巡りをしている中、これを見つけ四百円で購入した。その古本屋は確か、蕨駅近くの「なごみ堂」だったような記憶がある。とりわけ犯罪に関する古書は、なるべく手に入れるよう、老生は心がけている。犯罪における証拠の種類には共通項が存在し、特に指紋や足跡などはその代表格ではないだろうか。このような書物を調書と併読すると、例えば引用中の文章も一段と深く読み解ける。

狭山の黒い闇に触れる 484

【公判調書1594丁〜】

「現場足跡は偽造された」                               植木敬夫

一、足跡と自白は一致しない

われわれはまず、その出発点として、本件の足跡とそれに関する自白との関係の問題から入っていきたい。

(一)昭和三十八年五月二日の夜、正確には三日午前〇時十分頃、本件の犯人は佐野屋附近に身代金を受取りに来た。これは現在のところ争いのない事実である。そして警察は、彼らにとって万金と思われた張込み体制を取っていた。しかし、一瞬初動が遅れて犯人を取逃がしてしまったという。これは「吉展ちゃん事件」の犯人をまんまと逃してしまったことに続く、いや、何しろ三十名もの警察官が張込んでいたのであるから、それ以上の大失態であった。そして、その翌日善枝さんは死体となって発見された。世論は警察の無能を一斉に非難した。こうした状態の中で本件の捜査が開始されたのである。

ここに五月四日午前十時から午後一時まで行われたという、佐野屋附近の実況見分の調書(巡査部長関口邦造作成)がある。これには、

(1).佐野屋から東方二十八.六メートル、県道から三.五メートル入った畑の中であって、且つ、西から続いてくる茶株の東端に「被疑者が印象したと思われる足跡一ヶが認められた」こと、

(2).佐野屋の東側二本目の農道を、県道から南へ百三十三.七メートル進んだ地点から、畑の中を西方に「十八ヶの足跡」があったこと、

(3).その農道を更に南へ進み、市道を越えて六十五メートル進んだ畑の中に、東へ三十メートルに亘って「被疑者の印象足跡痕」があったこと、

が記載されている。

このうち第一の足跡は、一審二審の検証において立会人の指示した、犯人の潜んでいたと思われる跡のあった地点の近くであるが、県道から入っていると云っても、県道と畑の間の溝を越えて畑にとりついたばかりのところで、むしろ畑の北端と言ってよい位置にある。

(二)さて、この五月二日夜の行動についての被告人の自白はどうなっているであろうか。

右についての自白は、六月二十四日、二十五日、二十六日の司法警察員調書三通ぐらいのもので、その内容も、どういうわけかひどくあっさりしたものである。それはよいとして、第一の足跡に関連する供述をみると、六月二十四日の調書には、被告人が潜んだのは県道から「十米くらい畑の中に入ったところです」と書いてある。つまり、実況見分調書記載の足跡の位置とははるかに遠く、両者は全然一致しないのである。そして右の三通の自白調書には、その夜の被告人の行動した道順を被告人が書いたという図面が添付されている。しかし、それはいずれも佐野屋の直ぐ東側の農道を行き来したことになっていて、これまた第二、第三の足跡とはまったく無関係の自白なのである。つまりこの自白が真実であるとすれば、実況見分調書記載の足跡は被告人のものではないことになり、また、その足跡が本当に犯人のものだとすれば、被告人の自白は少なくとも五月二日夜の行動に関する部分は嘘偽架空の自白であることになる。このことは明白な事実であって、これは自白の信用性の検証にとっても見逃すことのできない重要な事実である。しかし私は、ここでは右の事実を別の角度から採上げる必要があると考える。(続く)

狭山の黒い闇に触れる 483

【公判調書1593丁〜】

「現場足跡は偽造された」                              植木敬夫

はしがき

『この事件の記録をざっと一読すると、われわれはまず、この事件には比較的よく物証が整っている、という印象を受ける。ところが、もうひとつ気を付けて読んでみると、今度はその物証の整い方には、もうひとつすっきりしない、どこかにわざとらしさがあり、どこかに密かに人の手が加えられている、という感じが残る。これはこの事件の大きな特徴の一つである。多少ともこの種の刑事事件の経験を持っているわれわれにとっては、この不審感は決して見過ごすことのできない重大な問題である。なぜなら、それは現れた事件記録の裏に大きな虚偽と作為が隠されていることの微表であるからである。

証拠の収集は、言うまでもなく捜査当局が行なったものであるから、もしも彼等がその過程で不正を行なったとしたら、彼等は十分に注意してその秘密を隠そうと努めるから、それを弁護人が暴き出すことは普通の場合でも容易なことではない。ところが、この事件では一審で被告人が自白を維持していたし、それだけならまだ良いが、弁護人を相手にしない態度を取っていたから、一審での弁護人は右のような不審を効果的に追及してゆくための、もっとも重要な手懸りを失ったままであった。こうして失われた月日は、今日から見るとまことに大きなものであった。

しかし、本件捜査段階での捜査当局の異常とさえ思われる焦り{恐らくそれは、いわゆる「吉展ちゃん事件」で犯人を取逃がしたのに続いて、再びまた本件の犯人を取逃がしてしまったことに対する社会的非難のためと思われるが}や、異常と思われるほどの弁護権行使の妨害、法廷での数多くの偽証などを考えると、右に述べたような証拠の全体的な印象からくる不審は、絶対に見逃すことはできないのであって、われわれはどんなに時間がかかっても、どこまでも追及してゆくつもりである。

そこで、まず手始めにわれわれが本件記録を十分な注意を払ってもう一度読み返してみると、その不審をもたらす実体が、かなりな程度までその正体を覗かせていることを発見することができる。その中で私は、本件では最有力な証拠の一つとしての地位を与えられている足跡について、その隠された秘密を探ってみることとする』

(続く)

狭山の黒い闇に触れる 482

【公判調書1590丁〜】

                           「狭山事件の特質」

                                                                           中田直人

第四、証拠評価の態度

6.『首に絞められていた木綿細引紐を巡る問題の検討を通じて、これまでにいくつかの教訓を導いた。これは本件において証拠の評価はいかなる態度をもってなすべきか、物的証拠、客観的事実によって一つ一つ事実を確かめることこそ何よりもなすべきであり、人の言葉をあれこれと探し、経験則に名を借りて、一人よがりの基準で自白を解釈し、更には、補足するようなことがあってはならない。それは真実に目をつむることであり、不正を助長することである。特に本件において証拠の吟味が、捜査に対する厳しい批判を抜きにしては決して正しいものではあり得ないことを考えねばならない』

第五、むすび

最後に我々の裁判所に望むところを明らかにしておく。

(1) 一切の予断と偏見を排して、ただ証拠だけを、なかんずく客観的証拠を直視されたい。それによって自白に充分の吟味を加えられたい。

(2)被告人がやったのだと疑ってかかるのではなく、その訴えるところに、ともかく謙虚に耳をかたむけられたい。本件の真相は必ずそこから理解されるはずである。

(3)本日の弁論、又これからの各弁護人の弁論は、現在の段階で何人にも明瞭に認識できる事実によって多くの疑問点を指摘する。それら一つ一つを証拠によって解明するために、本日提出した事実取調請求書による証拠調が必須である。我々の意見は、その証拠調の必要性の理由の陳述であり、我々の要求の事実に根ざす根拠の表明でもある。(以上、〜1591丁)

*次回より弁護人=植木敬夫の弁論を引用する。

狭山の黒い闇に触れる481

【公判調書1588丁〜】

                          「狭山事件の特質」

                                                                          中田直人

第四、証拠評価の態度

5.『木綿細引紐は問題がもう少し発展する。自白調書では「麻縄は荒縄と一緒に盗んだが、それは倒してある梯子の附近にあった」と一貫している。被告人は当審第二十六回公判で次の通り述べている。「首に巻いてある縄の写真も見た。原検事は、朝日団地に落ちていたと言った。自分では判らない。長谷部から、荒縄は中川ゑみ子の垣根のところだと教えられたけれども麻縄は教えなかったと思う。だから自分でも答えられなかったと思う。それでどこからか判らなかった。中川ゑみ子のところから細引を持って来たと言ったような気もするがちょっと判らない」

中川ゑみ子が花壇を守るために椎名方の新築現場との境に垣根とする荒縄を張ったことは事実であるし、それにまた椎名方、中川方とも梯子はあったが、そのいずれにも、どこにも木綿細引紐は無かったのである。中川ゑみ子は、木綿細引紐は「判らない、検事に見せられたとき、見覚えがないと答えた」と証言しており、余湖証人は「警察の人からロープみたいなものを知らないかと縄を見せられたことがある。使った覚えもないし、持っていく必要もない、瓦屋が持っていったんじゃないか、と答えた。ロープは全然見覚えがない。私はロープを持って行ったことはないと言った。瓦屋に、そういうことがあって警察が聞きに行ったんじゃないかと聞いてみたら、誰もそういう縄は使わないから知らない、と言っていた」と証言し、問題の細引紐を示され、「それが判らなくてね」と答えている。余湖証言では「見覚えのないロープのことで警察から二回くらい聞かれ、調書も取られた。見覚えがない、と書いてある。多分六月頃、検事に一番後に聞かれたときも、ロープは見覚えがないと答えた」というのである。そして彼等の証言が全く正確なことは、取調べられた六月三十日付神田正雄の実況見分調書、中川ゑみ子の七月二日付河本調書の存在と、その記載内容によって裏付けられている。自白の虚偽は、客観的にもはや不動のものである。ところが、一審検証調書添付写真三十四の立会人本田進の指示説明によると、「私が、縄と細引を盗られた被害者の中川さんから説明を受けたところでは、細引は玄関前にこのように置いた梯子に巻きつけてあった、ということでした」とあるのである。この立会人本田進は、六月三十日に神田正雄が施工した実況見分に補助者として立会った警察官である。中川、余湖の両証人が「木綿細引紐を知らない、そんなものは無かったと言っている」ことを承知していた警察官である。とすれば警察官本田進は一審検証にあって敢えて虚偽を裁判所に申立てたと言わねばならない。虚偽の申立はこの警察官だけではない。現職の検察官が裁判所で宣誓の上で行なった証言においてもなされている。当審第十七回公判における原検事の証言、「私自身は木綿紐は捜査しない。河本検事が捜査した。報告によると、中川が引越しのとき持って来たのであろう、というような記憶である」

河本検事が主任検事である原検事にウソを報告したかどうかを考える必要は毛頭ない。主任検事であった原が七月二日付河本調書や六月三十日付神田実況見分調書を見ていないはずはない。別のところに木綿紐があり、そこから持って来たのではないかと考えていたという原検事が、被告人の供述に合致するような中川ゑみ子の供述を得ていたのであれば、これを忘れることはあり得ない。原検事は明らかにウソを証言したのである。原検事は、西多摩郡福生町熊川に転居していた中川ゑみ子を証人に請求している。当審第十六回公判当時、同女は埼玉県入間郡武蔵町高倉にさらに転居していた。その転居の時期は記録上明らかでない。しかし、少なくとも当審検察官が中川証人を請求した際、その証人の住所は当審検察官によって直ちに判明したのである。それなのに原検事は、一審第六回公判で、「本日不出頭の中川ゑみ子は現在所在不明であるため、調査した上、次回公判期日までに間に合えば出頭させるようにする」と述べ、三日後の第七回公判でいともあっさりと証人請求を撤回したのである。原検事は、中川ゑみ子の証言によって、木綿細引紐も荒縄と同じ場所から持ってきたという自白の虚偽が明らかになることを、意識的に避けたと言われても仕方ないだろう。

このことから最後にもう一つの結論が導かれる。警察官も検事も、被告人に自白を維持させ、被告人の自白の虚偽が明らかになることを防ぐためには、虚偽を証言し、あるいは不正な手段もあえて辞さないということである』(続く)

写真は狭山事件に関する手持ちの資料より。

狭山の黒い闇に触れる 480

【公判調書1587丁〜】

                          「狭山事件の特質」

                                                                         中田直人

第四、証拠評価の態度

4.『そこで更に進もう。長谷部証言の第九回公判調書によれば、「死体の状況は最初、やらんから判らんと言っていたが、被害者の父に詫びたいとか手紙を出したいというようになってから、死体をどういう風にしてどうしたということをはっきりすらすら言った。死体の状況は非常によく知っているようだった。首に縄を巻いたと供述したかどうかの記憶はない。私は縄で絞殺したとは思わなかった。縄は凶器として使われたものではなく、死体を運ぶときに使われたもので、それが死体にかかっていた。つまり、死体を先に入れてその上に縄を落としたんだということで取調べに当たった。そのことについては大して重きを置かなかった。縄が首に巻いてあったと解釈すれば別だが、あのときは縄が首にかかっていたというか、縄が死体の上にのっていたという状態であった。その縄のことについてはそう重きを置かなかったように思う」というのである。刑事調査官であり本件死体発掘に立会った長谷部としては、あまりにもお粗末である。しかし、この証言は取調当時の長谷部の死体の状況についての認識を示している。

長谷部は、全く事実に反することではあるが「死体の首には縄は巻かれていたのではなく、かかっていたのである」という風に理解していたのである。長谷部がここで、意識的にウソを言う理由はあろうはずもない。客観的事実を正確に認識し、それに基づいて捜査するのではなく、ただひたすら被告人の自供を強いる警察官の姿がこの証言に端無くも表れている。長谷部のこの誤った認識が、七月四日付検察官調書に至るまで、首に巻きつけられた木綿細引紐が被告人の自供に登場しない、ということに反映したのである。こうして、この点に関する被告人の自白内容は長谷部の誘導の所産であることが、もはや一点の疑いもなく明らかにされた。

ここから引出されたもう一つの結論は、縄の使用方法に関する自白は取調官の誘導の所産であったということである。したがって縄の出所に関する自白もまた誘導された結果と見ることが許される。こうして、この法廷で被告人が述べるところは完全に裏付けられることとなる。証拠物そのものの直視、客観的に認識し得る事実の尊重、捜査官証言に対する警戒心、批判、こうした配慮と当然の証拠評価が、本件ではすべての問題について尽くされねばならない。そうしさえすれば被告人のこの法廷の供述が真実であることが明瞭となることであろう』(続く)

写真は「無実の獄25年・狭山事件写真集=部落解放同盟中央本部中央狭山闘争本部編・解放出版社」より引用。