【狭山事件公判調書第二審3698丁〜】
鑑定人=上田政雄(京都大学教授・医学博士)
(C)窒息死の症状についての批判
①鑑定資料(イ)によると次のように記載されている。
(イ)上下眼瞼結膜は汚穢汚灰白色にして血管像の発現はやや著明、眼球結膜は滑沢度やや低下せるも透明にして血管像の発現殆どなし蚕刺大溢血点三個が下眼瞼結膜に存在する。左眼を同様に開瞼す蚕刺大溢血点が上眼瞼結膜に二個下眼瞼結膜の眼球移行部に若干存在すと記載されていて眼球結膜に浮腫はない。
(ロ)顔部は僅かに瀰漫(びまん)性腫脹の状を呈す。皮色は左右眼窩部と鼻部並びにそれらの周縁部を除き一般に微赤-淡紫色である。
(ハ)上下の歯列は後退咬合の状を呈し両者の間には僅かに舌尖の挺出を認めしむ(舌尖は上顎前方歯牙の先端に接し下顎前方歯牙の僅か前方に位す)
(ニ)舌先端部において舌先より約〇.七センチの所に約二.四センチ長の挫創存在す。本創は四個の波状挫創より形成せられ全体として前方に向かい僅かに凸灣上を呈す粘膜下出血を存す。
(ホ)頭皮内面は一般に汚穢灰白色を呈するも後記の如き頭皮下出血斑を認めしむ。
(1)頭頂部においては手掌面大の範囲に指頭大以下の頭皮下出血斑やや多数散在す。
(2)左側頭部には指頭大以下の頭皮下出血斑が若干が散在す。
(3)左側頭筋内に軽度の出血存在す。
(ヘ)心臓摘出に際し暗赤色流動性血液を多量洩す。
(ト)右心室後面及び左心室前後面などに大きさ小豆大ないし蚤刺大の心外膜下溢血点やや多数が存在し集簇性を呈す。
(チ)右横隔膜上面には小豆大以下の溢血点やや多数が集簇性に存在す。
(リ)右肺の外面には小豆大ないし蚤刺大の溢血点多数が存在し特に葉間において著明、割合は一般に暗赤色を呈す。指圧により細小泡沫を混ずる流動性血液やや多量を洩す。左肺は右肺のそれにほぼ等しい。
(ヌ)胸腺被膜下に溢血点を認めしめず。
(ル)咽頭粘膜は暗赤紫色を呈し血管像著明にして半栗粒大以下の溢血点少許が存在す。
(ヲ)咽頭腔内には泡沫液やや多量を容る粘膜は充血性にて半栗粒以下の溢血点数個が散在す。
(ワ)気管腔内には泡沫液やや多量を入れ粘膜は一般に暗紫色を呈し上部には半栗粒大の溢血点数個が散在す。
(カ)舌骨ならびに喉頭諸軟骨いずれも骨折を認めしめず。
*
②以上の鑑定資料(イ)の所見を根拠として色々の判定を下してみよう。まず鑑定資料(イ)添付写真第四号を見ると右眼瞼皮膚部には鑑定資料(ハ)六十五頁記載の蚤刺大の小皮下出血が見られない。また同写真上で右耳前部、下顎部等に見る黒点は解剖鑑定者の意見同様、虫害によるものと思われる。この他には顔面皮膚部には溢血点と思われる黒点は認めない。
③鑑定資料(ハ)六十五頁には鼻孔より鼻血が出ていると書かれ現場写真二十二、二十三号には鼻の下の部分に暗黒色の部分が見られ、これが鼻血を思わせる所見ではないかと考えられる。しかしこの現場写真は死後かなり経過した時の写真であり、顔面部には鬱血が見られる状態で死斑も高度に出ているという条件下であるから、恐らく鼻血と考えたものは死後の溶血に加わり気管内から泡沫液が腐敗の結果として多量に出たためである。
④耳孔内には凝血も、凝血が乾固したものも見られない。
鑑定事項にあった様に頸部圧迫に加え二〜三時間逆さ吊りしたために耳孔内出血や鼻血が助長されたという所見は本件には全く見られない。
⑤眼瞼結膜に溢血点が比較的少なく眼球結膜にも溢血点や浮腫や血管充盈を見ていない。この所見は私の経験上何らか巾広い物で絞殺されたか、かなり巾のある太い物で強く側頸部を圧迫した時に最もしばしば認められる。これは巾広い物によって気管の圧迫と同時に左右側頸部の血管や頸動脈洞の圧迫、迷走神経の刺戟等の諸条件が加わり比較的早く意識不明に陥り死に至ったものと思われる。
⑥その他の窒息所見として前記①に挙げられた所見は明らかに窒息死の所見であり死因は外因的窒息死であることはもはや疑いの余地はないであろう。
⑦前頸部には種々の痕跡が残っているが、まず鑑定資料(イ)記載の症状を詳細に調べてみよう。
(イ)b前頸部において胸骨点上方約九.七センチの所を通り横走する蒼白色皮膚皺襞(しゅうへき)一条存在す。長さ(左右径)は約九.九センチ(内右方は約四.九センチ)巾径は約〇.五センチにして上下両縁の境界は明瞭ならず。
(ロ)C 1 左前頸において正中線上で胸骨点上方約九.四センチの所(ほぼ咽頭部上縁に相当す)より左方に向かい横走する約六.二センチ長、約〇.三センチ巾の暗赤紫色部一条存在するも周辺は自然消褪の状を呈し境界は不明瞭である。
(ハ)C 2 中頸部において胸骨点上方約六.六センチの所に横走状の暗紫色部一条存在するも頗(すこぶ)る不明瞭である。
(ニ)C 3 前頸部において下顎骨下方より前記bまでの間は前頸部一帯に渡り暗紫色を呈し、その内に小指爪大以下の暗黒色の斑点が散在す。この下縁部には左上方より右下方に向かい平行に斜走する赤色線条(巾〇.三センチくらい)多数を認めしむ。
(ホ)C 4 前頸部一帯において前記C 1 の下方より上胸部のルドウッヒ角のあたりまでは暗赤紫色を呈し、その内には小指爪大以下の暗黒色斑点やや多数が散在す。上縁部には左方より右下方に向かい平行に斜走する赤色線条(巾〇.三センチくらい)多数を認めしむ。
(へ)前頸部において舌骨部より下顎底に渡り手掌面大の皮下出血存在す。
(ト)前頸部において喉頭部より下部に手掌面大の皮下出血存在す。
(チ)甲状腺右葉の周囲には軟凝血塊やや多量が存在す。左葉の周囲にはやや多量の軟凝血塊が存在す。
(リ)甲状軟骨右上角部には大豆大出血一個存在す。
(ヌ)鑑定資料(イ)説明の項("1"3)に前頸部の損傷並びに死因より見れば前頸部損傷は明らかに頸部扼圧の結果にして索状物の絞頸の結果ではない。また(1)bには・・・・・・・・・・・・・・・(原文ママ・ここで記載文が途切れ、下記の文へと進んでいる)
に弧を描いて伸びる細い線状帯が見られる。この線状帯の表面には〇点に近い部分には右上方から左下方に下がる二、三条の平行の条痕が見られる。この条痕の他に〇点に遠い部分には左上方から右下方に及ぶ四本の条痕が認められる。この様にその部の条痕は二方向に向かっている。この〇点部から右上方に上がる線状帯は表面に右上方から左下方に走る二条の条痕を持っている。C3 の位置においてこの線状帯は消失している。
(続く)
*
*
○公判調書の上記(ヌ)はどうやら途中までの速記録となっているようだ。イロハの順序で行けば、記号(ヌ)の次は(ル)のとなるはずであるが、調書上では(ハ)へと飛んでおり、途中の削除された部分は不明である。