「五十嵐鑑定書」は狭山事件の確定判決の基礎となっている。
「確定判決」では「死斑」について請求人の自白における犯行態様や時間と死体における死斑の発現状況が矛盾するか否かが一つの争点となるが、検察側はこれについて複雑な論理操作を用いて弁護人の主張を退けることとなる・・・。
*
【狭山事件公判調書第二審3690丁〜】
石川一雄被告人に対する強盗強姦、強盗殺人、死体遺棄、恐喝未遂、窃盗、森林窃盗、傷害、暴行、横領被告事件について弁護士:青木英五郎は昭和三十八年五月十六日付、五十嵐勝爾(かつじ)作成の中田善枝の死体鑑定書(鑑定資料イ)及び五十嵐勝爾証言(鑑定資料ロ)大野喜平作成の実況見分調書(鑑定資料ハ)を鑑定材料として、次の件につき鑑定を行なうよう上田政雄:京都大学教授医学博士に嘱託した。
*
鑑定人:上田政雄
鑑定事項
(一)本件死体の各死斑の位置、規模、程度はどのようなものであるか。
(二)右各死斑について死体のどのような状況(経過時間、姿勢、位置など)下で発生したものであるか。
(三)トマト、茄子、人参、馬鈴薯、小豆などは本件の如き十六才の女性の場合、通常何時間を経過すれば消化されるか。
(四)本件死体の頭部損傷、前頭部の赤色斜走線条などの対比において、本件死体の足首部分を本件木綿紐あるいは荒縄などで結んで二時間ないし三時間の間死体を逆さ吊りにした場合、右足首部分に何等かの痕跡が残るものかどうか。本件足首に右の如き痕跡が認められるか。
(五)鑑定資料(イ)第壱外表検査(2)(A)記載の頭皮損傷(後頭部裂創)について、その部位からして通常多量の出血があるか。
(六)鑑定資料(イ)第四章説明(1)4に記載の「処女膜の陳旧性亀裂三条」を鑑定資料(ロ)に基づいてその意義を鑑定されたい。
(七)鑑定資料(イ)を総合して「本屍について死亡直前に暴力的性交があった」(鑑定の項四に記載)と断定しうるか。
よって私は昭和四十七年六月六日、京都市左京区吉田近衛町・京都大学医学部法医学教室において、右鑑定に着手した。
(A)死斑又は皮色に主に関係する事項に対する批判①
①死後血管内の血液は体の下部に位置する細血管内を沈下してくるがその沈下した血液を皮膚を通して見た所見を死斑といい、また内部諸器官中や内部諸組織において体の下部に位置する細血管内へ多量の流動血が集合してくるのを内部血液沈下と名づけている。
②死斑は血液が流動性であればあるほど同じ死後時間でも強くあらわれ色調は短時間の間は淡赤色、長時間経ち死斑が高度になって紫赤色の色調を増すといわれる普通の死因の場合には三〜四時間くらいで死斑が軽度に出現するが、特に流動血が多量の場合皮膚上に皮下出血として死斑の他に出現する場合もある。又時間が経つと腐敗現象がまず血液に認められ溶血現象としてあらわれる。溶血した血色素は細血管壁を通過して周囲組織へ浸潤していく。従って死斑が周囲組織へ滲んだ様な姿になり少し新鮮な状態とは変わってくる。本件の顔面部の死斑は窒息死の症状としての鬱血と共にうつ伏せになっていたための死斑が加わり且つ溶血が加わっているために死斑の色調も少し赤褐色になり周囲へ滲んだ様になって見える。尚添付写真1を見ると左顔面部には腐敗によって皮下静脈が怒張して見える腐敗網らしいものが見られる。然しこれは他の写真には見られない。
③尚死斑の部に溢血点が死斑と同じ機転が働き出現するといわれている鑑定資料(ロ)五十六〜五十七頁に五十嵐証人が語っている言葉の中に顔面部にはチアノーゼはあったけれども黒い斑点は見られていない・・・とあるのはこの様な溢血点のことを物語り、死斑が大量に出る時にはこの様な死後の溢血点もかなり多く出るものである。
④本件においては鑑定資料(イ)によれば(1)概括的全身所見には全身の皮色は一般に死後の蒼白を示すも軀幹及び上下肢等には淡赤色虎斑状に弱く死斑が出現していると記載されている。元来普通の剖検の場合は死斑の発現部位というものはそう綿密な記載を必要とするものではない。そして本件の場合も解剖鑑定人はそう綿密に死斑の場所を考えたものではなさそうで上記の如き記載をしたわけである。しかし所見を綿密に見ると解剖鑑定人の意見と異なるものがみられる。
⑤しかし本件では死体はうつ伏せ状態で発見され後手に縛られているという特殊な態位でしかも地中に埋められていたため少し綿密に死斑を見るべきであろう。
⑥私が資料(イ)添付カラー写真十四号を見たところ死斑と思われる所見は第一図の様であるが総括して述べれば体の下面になる部分すなわち体前面に強く死斑が出ているが前面のうち土に接して強く圧迫されていた部分には死斑は出ず土に接しながらもあまり強く圧迫されておらない非圧迫部には死斑が比較的強くあらわれている。体背面は軽度の死斑が出現しているにすぎないが、この部分に出ている死斑は解剖にかかる前に死体が仰向けに置かれたため出現したものかも知れない。
⑦顔面部、前胸部上部には死斑が強くあらわれているが、これは頸部における鬱血所見の上に更に死斑が加わり更にこれらの死斑が溶血現象を起こしたために生じた所見であることは上述した。
⑧前頸部の所見はかなり複雑な様相を呈しているが、この所見については後述の窒息所見の項で詳述する。
⑨カラー写真十四号の死斑の状態を詳述すれば次の様である。
(続く)