『老生による原文(公判調書第二審)引用作業は常に泥酔状態で行なわれるが、中身は概ね正確である』
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【公判調書3589丁〜】
「上田政雄鑑定書に対する意見」(検事)
結論的に言えば、本鑑定の判断はケースバイケースで、種々の場合が考えられ、見解の相違に過ぎず、状況を加味して之を判断すれば、五十嵐鑑定乃至被告人の自供と相入れない鑑定結果ではないと考えられる。
以下問題点につき意見を述べる。
第一、宙吊りの有無について
死斑の点からは十三頁に、「死後二、三時間の間はまだ死斑が血管内部のみにあって体位の移動によって容易に位置を変えるので、逆さ吊りをして以後死体をうつ伏せに放置した場合は、逆さ吊りした所見が何も見られないことがあっても不思議はない。本件においては、死斑の状況はうつ伏せになって埋められていたのにふさわしい所見であるが、逆さ吊りをしたと言うことは全く否定することは出来ない」としている。
五十嵐鑑定によれば、死斑が消失しなくなる時間を四時間乃至六時間としているが、何(いずれ)にしても本件の場合は、死斑が残るか消えるかの限界時間付近と考えてよいと思われるので、死斑からは何(いずれ)とも断定出来ないとみられ、問題は足首の痕跡の有無である。本鑑定は、「宙吊りの場合は全体重が足首部分にかかってくるのであるから、たとえ二、三時間でも逆さ吊りされた場合には縊死の索溝と同じ程度に付いてもよいわけで、死斑は残ることがないとしても索溝はかなり強く残ることが考えられる」とする。然(しか)し之(これ)はあくまで純粋の意味の宙吊りであり、五体全体が足首で支えられ宙吊りにされた場合のことを予想し、その前提での所見である。したがって、昭和四十七年五月十日付検察官意見書記載の如く、被害者の死体が芋穴の底に腰まで付いていた場合には大いに状態を異にすると言わなければならず、一般に、人間の重心が足先から身長の五十一、七%のところにあると言われているが、そのことを考えると、被害者の吊るし方如何によって足首の索痕の生じない場合があってもなんら奇異とすべきではない。
次に本鑑定は後頭部挫創の周囲からの出血が乾燥血として残っていないとし、之も、宙吊りが行なわれなかった所見の一つとしてあげているが、後頭部挫創については次項で述べる。
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第二、後頭部損傷について
本鑑定は、本傷の成因については「加害者の積極的攻撃の結果とはみなし難く、本人の後方転倒などのため鈍体との衝突の可能性を考えられる」としており、この点は五十嵐鑑定と軌を一にする。
次に後頭部損傷は「皮膚に裂傷を来たす程の損傷を受けているのだから、被害者は一時的にしろ意識不明状態となっていると考えねばならない。この場合、後頭部損傷よりかなりの出血があると考えられるのが常道であるが、五十嵐鑑定書にはその旨の記載がなく、また写真上でも認められない」としている。然し写真に写っているか否かを判断の主要根拠とすることは後にも触れるが極めて危険な判断であり、本件の場合、死体を土中から掘り出して水洗いし、損傷部位の毛髪を切ってから解剖に付したのであるから、その際、毛髪に付着した血痕を洗い流すことも十分考えられ、鑑定書に記載がなく、写真に写っていないことを以って血痕の多少を判断するのはむしろ無謀というべく、また犯行当日の降雨も状況として併せ考慮する余地がある。
また本鑑定書は、「鬱血の状態にあり死後に起こった損傷であっても、死後経過時間は短い場合には軽度の血液の浸潤があり、凝血があるように見える場合がある」として本損傷が死後の損傷であるかの如き記載をしているが、五十嵐鑑定書の内景検査の本件頭部損傷に該当する部位には明確に「母指頭大の頭皮下出血斑一個存在す裂創は頭皮内面に窄通しあらず」と記載してあり、生前の損傷であることは明白である。
然し本損傷による出血が多いか少ないかについては、骨膜までは傷が通っていなかったことをもって出血が少なかったと決めつけるわけにはいかないし、また、この傷の発生時期如何によっては即ち裂傷が出来てすぐ死亡したという如き場合であったら出血量が少ないこともあり得るので、一概には断定出来ないと考えられる。
また本件の損傷を受けて被害者が必ず意識不明状態になるとの点については、本件傷害の程度から判断し必ずそうなるというのは言い過ぎで、やはりケースバイケースである。
(続く)