アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 825 第五十回公判

【公判調書2550丁〜】

                     「第五十回公判調書(供述)」

証人=将田政二(五十七歳・自動車教習所管理者)

                                            *

裁判長=「あなたはこの事件について、昭和四十一年二月十日に当裁判所で証人として調べられましたね」

証人=「はい。証人に一回出廷しております」

裁判長=「一回だけですか」

証人=「はい。朝から夕方まで調べられました」

裁判長=「あなたは、その後同月二十四日にも証人として調べられているのですが、そうするとあなたの記憶は失われているわけですね」

証人=「はい」

           以下の尋問及び供述は、別紙速記録記載の通り。

                                                                             以下余白

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原本番号  昭和四十年(刑)第二六号の四〇

                                        速記録

                                                     昭和四十六年七月十五日  

事件番号  昭和三十九年(う)第八六一号

                                            *

裁判長=「まずあなたの警察官としての経歴を順序立てて述べて下さい」

証人=「昭和十一年の四月一日に埼玉県巡査を拝命致しました。で、昭和十六年の七月二十五日に宇都宮の五十一師団に召集され満州、広東、バギオ、ラバウルニューギニア、それから病気になりましてラバウル、マニラ、バギオの陸軍病院において療養しました。全快しましてからセブ島の独立自動車中隊に転属になりました。セブ島パナイ島ネグロス島、レイテ島で終戦になりました。レイテのタクロバンの捕虜収容所から昭和二十年の十二月八日に復員致しました。それから最初は羽生警察署勤務だったんですが川越警察署に移動になってから召集になりまして帰って来ましてから川越署へ勤務したんですがマラリア等で休みがちで、それから二十一年の三月三十一日付をもちまして巡査部長になりまして今東松山警察署になっていますが、当時は松山警察署の経済部勤務をしました。二十二年の五月に県本部の経済防犯課に転属になりました。それから同年八月十六日付と思いますが、警部補に任官しまして大宮警察署の経済主任になりました。で、大宮警察署におきましては経済主任と警務主任を致しまして、二十四年の二月に県本部の当時は刑事課と申しておりました刑事課に転勤になりずっと知能犯の捜査を担当致しまして、二十六年警部になりまして、二十六年の十月、草加警察署の次長に転勤になり、二十八年十月、県本部刑事部捜査二課に知能犯担当主任の警部として転任、それから三十四年から捜査二課の次席を致しまして、三十六年三月、警視になりまして捜査一課の次席を命ぜられました。三十八年八月、鑑識課長。四十年の九月、県警本部の捜査一課長。四十一年九月、熊谷警察署長。四十二年十一月、大宮警察署長。四十四年三月、県警本部警務部付になりまして事実上の退職でありますけれども、警務部付になりまして四十四年六月四日付で退職致しました」

裁判長=「今だいぶ詳しくあなたは述べられたんだがこれは今度証人に出てくるに際して自分の履歴書か何か一ぺん見なおしたんでしょうか」

証人=「いや、見なおしてきません」

裁判長=「自分の経歴だからこれは何も見なくたって自分じゃよく覚えてると、こういうことですか」

証人=「はい、そうです」

                                            *

橋本弁護人=「あなたは五月三日から善枝さん事件の捜査に参加しておられますね」

証人=「はい」

橋本弁護人=「山狩りを行ないましたね。五月四日頃からですか」

証人=「はい、行ないました」

橋本弁護人=「この山狩りにあなたも参加したわけですか」

証人=「四日の日でございますか、死体発見の日でございますか」

橋本弁護人=「はい、そうです」

証人=「死体発見の日は私は県警本部に連絡に出ておりまして県警本部におきまして死体が発見されたという電話連絡を受けました。したがって死体発見の当日は山狩りには行っておりません」

橋本弁護人=「そうしますとその前日はどうですか」

証人=「前日も自分では山には行っておりません。ということは捜査本部に残りまして捜査本部におりました」

橋本弁護人=「捜査に一度もあなた自身は、山狩りに参加したことはないということですか」

証人=「山狩りには参加しておりませんが、その後におきまして何回も山には行っております」

橋本弁護人=「山と言いますと死体が発見された付近の山ですか」

証人=「はい」

橋本弁護人=「その山の中で何かあなたは見聞きした事実がありますか」

証人=「ただ私が捜査本部を出ますと報道関係の車が、当時報道関係者が五、六百人ずつ捜査本部の周囲におりました。したがって当時は捜査一課の次席でございますから、私が歩いて出ますともう何十人かの報道関係者が付いて来る、自動車で出ましても十何台かの車が付いて来るということで思うような行動は私自身としては取れませんのであんまり出ませんでした」

橋本弁護人=「あまり出なかったけれども山に行ったことはあるんですか」

証人=「ええ、行ったことあります」

橋本弁護人=「そしてその山というのは死体の発見現場付近の山であるということなんですね」

証人=「はい」

(続く)

                                            *

インターネットなど存在しない頃から私は長年、狭山事件を扱った本や資料を見つけようと古本屋巡りを続けていた。だが、探究本を見つけようという積極的な姿勢での古本屋巡りはそれが空振りであった場合、様々な疲労が倍増することに気付き、その探索意識を変革した。変革後の私の古本探索意識は、ダラダラと古本屋を訪ね、決して探究本などそう簡単に見つかるわけはない、とりあえずワンカップでも飲むか、という姿勢に昇華していった。つまり、諦めや絶望から行動を開始するのである。感情の順序を入れ替えた結果これは精神的に功を奏し、たとえ探究本と巡り合うことが出来なかったとしても、その心は軽やかでいられるのだ。

このような無駄な日々を送りながらも、最近では探究本の捜索範囲を絞り、もっぱら高円寺・西部古書会館で行なわれる市へ行き、その後、埼玉・蕨駅近くの「なごみ堂」を覗くという捜査活動を行なっている。

捜査の過程でよく目にするのはこの古い本である。

これは部落解放同盟中央本部中央狭山闘争本部から出版された本であり、その内容は濃く硬い。この団体から出版された狭山事件関連本であるが、それらはほぼ事件が根底に差別問題が含まれ、また発端となり展開していったとの見方を取っている。

のちに日本中を震撼させたグリコ・森永事件において捜査当局が犯人検挙に向け、とある被差別部落地域にローラー作戦を行ない、同団体から猛抗議を受けた事実を見れば、やはり警察組織にはそのような差別意識が存在しているのかと、解放同盟の主張もうなずく点がある。

ところで私はこの「狭山差別裁判」を、その差別という視点を取り払い読むのだが、こうすることでこの書は狭山事件に関する極上の資料としてその真価が浮かび上がってくるのである。いわゆる伊吹本や亀井本と呼ばれる狭山事件関連本とは格の違いは明らかであろう。