アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 549

【公判調書1724丁〜】

「自白の生成とその虚偽架空」            弁護人=石田  享

4.思い違い、間違っていた、よくわからない、記憶しないなどの自白。

(3)この種の供述の意味

被告人は「自白」後もなお、全般的におびただしい不知的供述を続けざるを得なかった。この種の供述は、明らかに自らの体験と関わり合いのない自白であることを示しており、したがって本件「自白」は一つの空想的ストーリーであり、おとぎ話であることを意味している。

如何なる物語にも大きな筋がある。その限度において本件自白にも大筋がある。しかし本件「自白物語」の大筋は決してリアルに具体化し得ないものであった。それは、この「自白物語」の作者が取調官を主とし被告を副とした合作であり、その取調官と被告との呼吸が必ずしも一致せず、「仕切り直し」が続けられたことによる。

取調官にいくら誘導されても、体験のない被告人には取調官が期待する供述は十分には成し得なかったのである。両者の呼吸の不一致と仕切り直しは、おとぎ話の筋書きに非常な混乱と曖昧さ、抽象さとをもたらした。ちなみに、六月二十九日の勾留の「期間延長の理由」の一、二には「被疑者の自供には矛盾が多く、更に裏付け捜査に日時を要する」(6・勾留期間延長の理由、勾留状添付別紙)と記載されているように、捜査検事でさえ自白を信用出来なかったのである。しかも、起訴までに「自供の矛盾」が解消されたのではなかった。起訴後四十日以上を経た八月二十二日に至ってさえ捜査、一審公判を通じての主任であった原正検事は、「自白内容についても全部真実を述べたと思われない点もあり」と、自白に対する不信感を表明し、被告人からの接見禁止解除申立に反対したほど、ひどい内容の「自白」であった。

検察官の七月九日の起訴は、明らかに見込み起訴であった。そのため取調官でもあった原審検察官は、一件記録から明らかな通り、原審第一回の証拠請求において、捜査当局が容疑をかけたことのある石田一義など計二十四名の「五月一日の行動」を立証しようとして書証を取調請求し、それが当然に不同意となるや、更に改めて昭和三十八年十月二十四日付書面で荻野善一など計十五名の者の五月一日の行動を立証事項として、十八名を証人として申請するという異常なことを行なった。こうしたことは、取調官でもあった一審検察官が、被告人の自白に対し深い疑問と強い不信感を抱いていたことを明らかに示している。

五、むすび

今や被告人の自白が、物的証拠や客観的事実から見て、或いは自白の内容自体から見て到底信用できないことが明らかとなった。のみならず捜査検事でさえ不信を持ち続けていたのである。虚偽架空の自白が何故生まれたかについても、その大筋はかなり明らかである。当審今後の審理の大きな一つの課題が、何故、いかにして虚偽の自白が形成されたかについての究明にあることも明らかである。

*以上が弁護人=石田 享による「自白の生成とその虚偽架空・一〜五」である。ところで、今回の記事は前回の記事と一まとめにし、公開すべきであったな・・・。度を超えた文章の分割は、分かりづらさにつながることを今回学んだ・・・。

ところで、袴田事件の再審が確定したわけであるが、その事件発生から袴田巌さんの逮捕、起訴に至る過程などをインターネット上で検索したところ、思いのほか密度の濃い情報が載っており、古書店を巡り関連資料を見つけ出す手間が省けた。そしてそれらに目を通していると、何やら負の連鎖が感じられ、それとは、自身を奈落の底へ落とすきっかけとなる浜松事件(1941〜1942)を担当した紅林という警察官に学んだ部下が、のちの幸浦事件(1948)・二俣事件(1950)を担当し(いずれも死刑判決の後、無罪が確定)、袴田事件をも誤判に導いた(だっかな。飲酒しながらの記述ゆえ勘弁)という流れである。

二俣事件では、警察官の一人がその強引な捜査手法に異議を唱え、法廷でその取調べの異常さを証言するなど異例の展開をみせる。この一連の過程は「現場刑事の告発  二俣事件の真相」という表題で自費出版されるものの、書籍自体は現在入手困難であることを知り、悔しいあまり老生は一万回ほど地団駄を踏むが、ちょっと落ち着いたところで本棚を見ると・・・、

この様な古本があり、もしやと目次をめくると、

ウッ、ある!命の危険を恐れず自費出版した「現場刑事の告発  二俣事件の真相」の著者、山崎兵八の項目が・・・。いやあ、良かった。