アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 380

【公判調書1372丁〜】

昭和三十九年(う)第八六一号

強盗殺人等  被告人  石川一雄

昭和四十三年十一月十一日  弁護人  中田直人  印

東京高等裁判所第四刑事部  御中

●事実取調請求書

検察官に対し、次の検察官手持証拠の提出を求め、その取調をするよう請求する。

一、昭和三十八年六月三十日付司法警察員、神田正雄作成実況見分調書(立証事項)

1.次の各記載があること。

(1) 「実況見分の日時。1.昭和三十八年六月二十八日午后零時二十分。午后一時三十分。2.同年同月二十九日午后零時零分。午后一時五分」

(2)「実況見分の立会人」「1.東京都西多摩郡福生町字熊川二八六番地(前住居狭山市入間川二八六一番地)中川昇一の妻、無職中川ゑみ子二十八才」「2.東京都練馬区石神井二の一三二六番地、大工職余湖正伸三十二才」

(3)「本職は、司法警察員巡査部長今泉久之助、同  名川金五、司法巡査本田進、同  吉沢実の四名を補助せしめて、この実況見分を実施した」

(4)「この時本職は、立会人中川ゑみ子に対し、居宅に立てかけてあった梯子の付近や居宅南側には、当時どの様な物を常時置いたか、また、これらの付近に木綿の荷造縄を置いたかどうかについて、説明を求めた。立会人中川ゑみ子は、『この梯子は私方で使っていたものであり、いつもこの位置にあった。私方で吉祥寺に住んでいた当時、荷造紐で洗濯物を干すとき確かに使用していたが、引越してくる時、この荷造紐は持って来なかったと思う。こちらへ来てからこの荷造紐を使った記憶がない。梯子の付近や家の廻りにそのような荷造紐を使って置いた記憶もなかった』と申し立てていた」

(5)「この時、本職は立会人余湖正伸に対し、当時建築中であった椎名稔方のどこへ梯子を置いたか、また、その梯子の付近に木綿の荷造縄を放置したかどうかについて、説明を求めた。立会人余湖正伸は、三月二十七日ごろ建前だったが、建前後も幾日か仕事に来て、仕事を中止するときは建物の南側で西寄りの隅へ横にして置いた記憶があるが、木綿の荷造縄のような物は必要がないので置き忘れたことは無い。瓦屋の職人も来ているが、木綿の縄は必要がないわけだ。ただ、小物を積んできた時、忘れていったことも考えられる」

2.当審証人中川ゑみ子、同、余湖正伸の各証言と相まって、両名が当初から本件木綿細引紐は知らない旨一貫して述べていたこと、および、原審検証立会人本田進が行なった、「私が、縄と細紐を取られた被害者である中川さんから説明を受けたところでは、・・・・・・細紐は玄関前にこのように置いた梯子(二点)に巻きつけてあった、ということでした」との指示説明は虚偽であること。

二、中川ゑみ子の昭和三十八年七月二日付検察官河本仁之に対する供述調書。

(立証事項)

1.「四、私方には木綿縄はありませんでした。ただそんな物があっても、そんなに気に留めないから或いは家の廻りにそんな縄があったかも知れないが、どっちにしてもはっきりしません」という供述調書があること。

2.当審証人中川ゑみ子の証言と相まって、同人が当初から本件木綿細引紐は知らない旨一貫して述べていたこと、および、当審証人・原  正検事の「河本検事が捜査した報告によると、中川という人が引越しのときに持って来たのがあるだろうと云うことであったような気がします。・・・・・・(中川がそう言った)そういうような記憶です」という証言は虚偽であること。(続く)

*本文とは関係ないが、下の写真は被害者宅に届けられた脅迫状である。筆の運びに独特のリズムがある。

次に、石川一雄被告人の筆跡が確認できる調書を見てみよう。調書の日付は昭和三十八年六月二十二日であるから、事件発生から一カ月も経っていない時期である。内容は、石田養豚場の当時の状況を説明したものだ。

「じゃるべ」という記述が確認できる。もしかすると「べ」が、「じゃ」と「る」の真横にあるので、「じゃべる」と書きたかったのか。いずれにせよ意味がよくわからない。更に、そのやや下に「いりぐち」と記述されているが、「ぐ」の濁点の位置が「く」の反対側に付けられている。そして何より文字の書き方にはリズムのようなものが皆無であり、連続性が確認出来ない。上の脅迫状と見比べると一目瞭然である。このような事実が素人目にも明らかなわけだが、専門家である警察・検察はどうも真逆の判断を下した模様である。