アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 368

【公判調書1345丁〜(19/21)】供述調書  石川一雄

右の者に対する恐喝未遂等被疑事件につき、昭和三十八年六月八日狭山警察署において、本職は、あらかじめ被疑者に対し、自己の意思に反して供述する必要がない旨を告げて取り調べたところ、被疑者は任意左のとおり供述した。

(一)私の家で炬燵のある部屋は玄関を入って直ぐのテレビのある部屋です。私と弟の清は本年四月二十五日頃まではこの部屋で炬燵の両側に布団を敷いて寝て居りましたが、四月二十五日頃、炬燵のやぐらを取って畳を入れました。その後はお客がある時等その部屋を使ったりするので、私は四月二十五日頃からテレビのある部屋の奥の、お勝手の方の四帖半に寝るようになりました。弟の清はテレビのある部屋に寝たり私と同じ部屋に寝たりしておりましたが、五月三日から板橋の姉さんが来て泊まっていたので、約一週間くらいは寝る部屋の順序が多少変わりました。そのことについて、この前に私が炬燵のある部屋は玄関の奥のお勝手の方の四帖半と云った様に調書に書いてあるそうですが、それは私が間違えて云ったと思います。

(二)東鳩製菓に勤務している頃、私は野球のチームの一員でキャッチャーをしていました。私の近くの石川辰夫も同じ東鳩で働き、野球をしていました。野球の試合の時、参加者に会社からタオルや手拭いをくれた事があり、私もタオル三本くらい貰いました。タオルは東鳩の会社のタオルだと思います。貰ったタオルは持って帰ったので家で納つてあるか使ったか判然した事は判りません。東鳩に居る頃、海老沢きく江という同じ会社に働いていた恋人が居ました。その女とは手も握った事も無く肉体関係した事は勿論ありません。

「問」君は東島明や石田義男等に対し海老沢きく江と東鳩の倉庫の中で肉体関係をしたと云った事はないか。

「答」そんな事をふざけて話した事は二、三回あります。なお私は女と肉体関係した事は今迄一度もありません。私が海老沢きく江に手紙を出した事が十回位ありますが、この手紙は自分が書いたのでは無く、板橋に嫁に行った姉さん、姉さんの婿さんに当たる石川仙吉さんに書いて貰って出しました。私は手紙は書けないし読めないので、きく江さんから来た手紙は読んで貰ったり返事を書いて貰ったりしていたわけです。

(三)東鳩を辞めたのは、競輪をするのに友達が私に金を預け車券を買ってくれと頼まれました。金額は、佐藤秋男から千五百円。明智武から五百円預かりましたが、車券を買わずに西武園の競輪には行きましたが自分の為の車券の費用に使ってしまいました。その事から会社に行きづらくなって東鳩を辞めてしまいました。佐藤さんは私に五百円預けたと云っているそうですが私は千五百円預かった様な気がします。東鳩での私の仕事は流れ作業の中で菓子を缶に入れる作業でした。海老沢きく江は、その菓子の目方を計ったりしていました。

(四)石田豚屋の戸門の方の豚小屋の物置には電燈は引いてありますが夜は消してありました。その物置の方に行く入り口には犬が繋いであり、知らない者が行くと吠えますが勿論私には吠えませんでした。然し、豚屋を辞めてから三日ぐらい行きましたが三月四日以降は石田一義さん方付近に行った事は一度もありません。私が一義さん方に居た頃の、野放しで飼ってました豚の見張小屋の方には電燈は取ってありませんでした。現在でも無い筈です。その見張小屋の入り口はドア式で、鍵がかかる様にはなっておりません。

右のとおり録取し読み聞かせたところ誤りのない旨申し立て署名指印した。

浦和地方検察庁 検察官検事 原  正  検察事務官  滝沢  弘

(一)で石川一雄被告人により語られた部屋は上の写真か下の写真のどちらかであろう。

しかし、そのような事はどうでもよく、いずれにせよ、穏やかに慎ましく暮らしていた石川家に突如訪れた災いは、その結末が石川一雄氏に第一審判決=死刑を宣告されるという、不条理さから言えば自然災害に等しい、いわば天災が直撃したと言って良い災難に晒されるのである。だが、その根源を辿る時、関源三や長谷部梅吉、清水利一の名が事件の暗闇から浮かび上がるのは気のせいだけではない事は確かである。(二点の写真は狭山事件公判資料より引用)