アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 366

【公判調書1340丁〜(17/21)】供述調書  石川一雄

右の者に対する暴行、窃盗、恐喝未遂被疑事件につき、昭和三十八年六月一日狭山警察署において、本職は、あらかじめ被疑者に対し、自己の意思に反して供述をする必要がない旨を告げて取り調べたところ、被疑者は任意左のとおり供述した。

(一)前科はありませんが少年の時調べを受けた事が三回あります。私の家族関係や今迄の職業等は警察で話したとおりです。

(二)私は前  警察で聞かれた時、五月一日は兄ちゃんと一緒に水村しげさん方のトタン張替えの仕事に行ったと云ってたのでしたがそれは嘘を云ったのです。嘘を云った理由は、五月七、八日頃、父ちゃんが私にお前は五月一日遊びに出ているので、疑われては困るから兄ちゃんと一緒に水村さん方の仕事に行った、という事にしておけと云われており、その後で私が兄ちゃんにもその話をしておいたので、警察では、その様な嘘を云ったわけです。本当の事を云うと、五月一日は七時十分か三十分発の電車で入間川から西武園に行き、西武園で下車して付近の山の中に行って時間を潰しました。その山の中で大きな木の切株に腰をおろし、履いていた長靴の底に敷いていた新聞紙が湿っぽくなっていたので、新しい新聞紙と取り換えて両方の長靴の底に敷きました。新しい新聞紙は家から持って出たのか、電車の網棚にあったのを持っていて取り換えたか その点判然しません。敷いてあった新聞紙は長靴の底に合う様に一枚を折り畳んで使って、それで、両側の折った部分が破れたりしておりました。私の家では毎日と報知の二つの新聞を取っていると思います。

(三)その山の中で二時間くらい時間を潰して、また西武園から所沢まで電車で行き、十時十分頃から東莫というパチンコ屋でパチンコをし午後六時頃までおりました。その店では、二十二番の機械で最前部から夕方五時頃まで遊び三百十ヶ位儲けました。昼飯は食べませんでした。

(四)それから午後六時四十一分か七時十一分頃の所沢発の電車で入間川に帰り、七時半頃家に帰りました。その晩十時頃兄ちゃんが皮ジャンバーをびしょ濡れにして帰って来ました。が入曽へ行って、と云っておりました。

(五)五月二日は、午前中は犬小屋作り、午後は川本ヤスオと入間川映画館に行き、午後六時頃帰ってその晩はどこにも外出せずに寝ました。五月三日は、午前中近所の友達と入間川小学校で野球をして遊び、午後は兄ちゃんと一緒に近所の水村クニちゃん方の新築現場の土台のコンクリート打ちをやりました。なお二日の晩は、兄ちゃんが十時頃帰って来たように思います。石川一雄

右のとおり録取し読み聞かせたところ誤りない旨申し立て署名指印した。浦和地方検察庁川越支部  検察官検事  原  正   滝沢  弘

写真は事件当時の入間川駅(現・狭山市駅)

右上には僅かに 「入間」との駅名の一部が確認できる。なお、この魅力的な駅舎はとうの昔に消え去り、現在は無駄に巨大で無機質な、あまり利用したくない、早くその場から立ち去りたいオーラを放つ、負のパワーに満ちた駅と成り果てている。お気に入りの狭山中央図書館や狭山事件現場探訪で、仕方なくこの駅を利用しているが、狭山の持つ魅力をこの駅舎がほぼ破壊しているのだと、駅改築に携わった関係者は分かっておるのか。いつだったか、老生は故郷の岩手県に帰省するため東北本線に乗り、途中、電車の乗り換えのため駅舎で待機していた。まず気がついたのは傷だらけの木製ベンチである。決して座り心地が良いわけではないが、その飴色に輝く、傷に満ちた木のベンチは思わず駅舎の歴史に思いを馳せてしまい、時の経つのを忘れさせた。老生が正気に戻ったのは、駅舎内ではしゃぐ子供たちの嬌声であった。駅舎で遊んでいるのだ。近くに親はいなかった。何か自由で、地元に愛されている・・・。確か無人駅だったと記憶しているが、この様な駅舎が存在することに老生は感激したのである。出来れば今日、ここに泊まりたいとまで思わせる駅舎、これが大事ではないかと、現・狭山市駅に向かい小声でつぶやいた。