アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 252

弁護人=「前に述べたところでは、関巡査部長に三人でやったと言い出したのは二十三日頃ということですね」「その頃だということは間違いないのですか」被告人=「はい、絶食して二、三日経ってからですからその間医者が来たから大体覚えています」・・・私はここで一旦整理してみた。被告人は十九日か二十日に絶食を始め、途中医者に診察を受け、二十三日頃に関巡査に三人犯行を告げた。関巡査に二日間ほど調べを受けた後の二十六日前後、単独犯行と供述を変える。流れは確認できたので本題に戻ろう。弁護人は、被告人が単独犯行を告げた後、長谷部捜査課長から腕時計を見せられたことを確認、その点に踏み込む。弁護人=「時計を見せられる前に、あなたは時計はどうしたと言っていたのですか」被告人=「最初、質屋に入れたとか、そういうことを言っていたです」弁護人=「どこの」被告人=「ちょっと分からないけど、田無に勤めていたから田無と言ったと思います。向こうでもそういうように書いたと思います」弁護人=「そうしたら、どうなりましたか」被告人=「結局は嘘つくな、調べれば判るんだから、と言われました。それで、捨てた所を教えろと言ったから、その前に、家にいる時テレビで五十子の手拭いが無くなったということを知っていたので、そのへんを細かく書いたです」弁護人=「最初、田無の質屋に入れたと言ったけれども警察で調べたところ、無かった、ということなのですか」被告人=「調べたかどうかは分からないけれども、嘘つくなと言われました」弁護人=「そして、どこかに捨てたんだろうと言われたのですか」被告人=「そうです。そして五十子の手拭いが出たのをうちでテレビで知っていたから、そのへんを地図に書いて示したです」「その地図を書いたのは二十七日頃だと思います」・・・。逮捕から五年経過した段階での証言であるが、その記憶は鮮明である。私はその語り方にも注視しながら読んだが、弁護人との問答には不自然さが感じられず、警察・検察側が取った自白調書に顕著な、ぎこちない、違和感を感じる供述、作られた文章とでも言おうか、それとは対照的であるとハッキリ認識したのであった。(続く)                                                          
( 上の写真は、共に第二十六回公判調書の頁表記である。何故このような表現になるのか低学歴の私には分からない。高学歴者のみ通じる符牒のようなものであろうか)